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自由障害

 オオウナギの夢を見た。放課後の理科室で、夕日が粉っぽい埃を照らしている中、黄色がかった身体をよじらせて、オオウナギはビーカーやフラスコを床に叩きつけていた。パリン、パリン、という音が誰もいない理科室にこだまする。私はそれを見つめている。ガラスの破片がオオウナギのぱんぱんに太った身体に突き刺さり、鰓からこぽこぽと血の泡が吹きだしている。私は訊ねた。
「どうしてそんなことするの?」
水槽のガラスの向こう側でオオウナギはとても悲しそうな目を向けて言った。
「いつか君にも分かる日が来るよ」

 携帯のアラームが鳴った。朝の七時に鳴るようにセットしてある。大きなあくびをしながらさっきまで見ていた夢を反芻する。気持ちが悪い。なんだ、あの哀れな目は。血まみれのオオウナギはグロすぎる。もう一度寝て夢をリセットしようかと思ったが、止めた。私は自由だからいつでも眠ることができる。そしてたぶん頭がおかしい。
 洗面所で顔を洗い、自分の顔を見た。髪の毛も眉毛もない私の顔はすこし瘦せたような気がする。部屋着からブラウスとワイドパンツに着替え、軽く化粧をしてバンダナを巻き、玄関まで向かう。朝でも廊下が冷たくなくなってきた。今日は夏日一歩手前らしい。私はコンバースのスニーカーを履き、靴箱の脇に置いてある車椅子に座って玄関の戸を開けた。

 この土地に来たのは去年の暮れで、吹雪だったのを覚えている。数年前両親が離婚して、私は母親とその交際相手と暮らしていた。昔から無鉄砲なところが私にはあり、トラブルと共に生きてきた。母親とも交際相手ともよく揉めた。入籍して交際相手から昇格し、晴れて父親になった男は開業医で、世間体を気にして生きていて、何かと問題を起こす私の後始末に追われていたようだ。でも無駄だった。私はその頃からほとんど学校に行かず、家に寄り付かずで、同じような素行の悪い人たちと過ごし、ついに警察に捕まってしまった。その時は不起訴処分でなんとか釈放されたが、父親はもう面倒は見られないと私を母親の実家へと追いやった。私としては別にどこで暮らそうが問題ないし、父親が連れてきたでかい犬が嫌いだったし、かえって好都合だった。空き家になっていた祖父母の家は快適で、十分すぎる仕送りもあり、何も不便なく暮らしている。
 引っ越す前日、私は最後の反抗の証にエステサロンに行って髪の毛と眉毛を永久脱毛した。担当したお姉さんも「本当にいいんですか?」と戸惑っていた。バチ、バチ、と焼けた針が刺さるような激痛が絶え間なく走り、涙が滲んだ。つるつるになった頭を何度も触りながら家に帰り、両親の前で「今までありがとうございました」とニット帽をとった。その時に「あんたはもうすこし自分の行動を制限した方がいい」と母親は言った。「これからはそうします」と答えた。引っ越し当日、父親の病院からパクってきた車椅子に座る私を両親は冷ややかな目で見ていた。「そういう意味で言ったんじゃないんだけど」母親の呟きに私は満面の笑みで中指を立てた。それ以来問題は起こしていない。私は大人しくなった。

 車椅子に乗ってみて分かったのは、結構人に話しかけられるということだ。髪の毛も眉毛もない人間が一人車椅子に乗っていると、明らかに障害があるように見られる。声をかけるのは小中高生が一番多く、おじさんおばさんたちも気にかけてくれる。私が歩道の段差に苦戦していると、通りすがりの人が「手伝いますよ」と言ってそのままコンビニまで押して行ってくれたり、エレベーターでも「ボタン、押しましょうか?」と親切に扱われる。「可哀そうな人」という感じよりも「自分の善意を開放させてくれる人」といった印象だ。おかげで近所づきあいも悪くない。家にお菓子やら野菜やらを持ってきて、「何か困ったことがあったら言ってね」とも言われる。私が普通に歩いていたら誰も話しかけてこないだろう。車椅子に乗ることでこうも接し方が変わるというのは、やはり何か善意を見せたい人が多いのかもしれない。

 車椅子で向かったのは近くの公園の公衆トイレだ。グラウンドや体育館のある大きな公園の隅にひっそりと建っている。私はその多目的トイレに入り、鍵を閉める。そして車椅子から立ち上がる。雪がなくなったあたりからここで一日を過ごすようになった。あまり使用されないためかきれいだし、人目を気にしなくていい。たまに別の利用者や清掃業者の人と鉢合わせて外に出ざるを得ない時もあるが、後は概ね快適だ。私は昨日買ったコロッケパンを便座に座りながら食べた。そして今朝夢で見たオオウナギのことを携帯で調べ始めた。
 オオウナギは全長二メートルにもなる淡水魚で、熱帯に多く生息し、日本はその生息域の北限らしい。甲殻類を好んで食べることから、別名カニクイと呼ばれているようだ。皮が硬いためあまり美味しくはないらしい。
 調べていくうちに徳島にイーランドというオオウナギの水族館があったことが分かった。今はもう閉館しているが、かつては二メートル級のオオウナギが住む水槽に、ウナギに直接触れられるタッチングプール、成長観察コーナー、別の淡水魚たちもいたらしい。何か可哀そうだな、と思った。勝手に水槽に監禁されて、見世物にされて黙っているみたいに見えた。オオウナギの画像を見ていったが、やはりどの画像も気持ちが悪い。水槽の中で幸も不幸もありませんみたいな顔をしているのが気に食わない。次は夢占いで「ウナギ」と検索してみた。ウナギの夢は運気が急上昇していることを表しているという。「うなぎ上り」という言葉そのまま、とても縁起のいい夢で、願いが叶うらしい。私は「ふーん」と呟きながら一度携帯を閉じた。一度昼食を買いに行こうと思い、外に出た。ここからローソンまでは目と鼻の先だ。途中課外学習で公園に来ているのか、大勢の小学生たちに「こんにちはぁ」とあいさつされた。担任の先生は「皆偉いねぇ」と笑顔だった。私も口角を上げ、優しい表情を作って頭を下げた。
 ローソンでおにぎりとお茶を買い、また多目的トイレに戻った。何となくまだ夢を引きずっている自分がいた。気持ち悪いと思ってはいたが、何故か親近感が湧く。ただ縁起の良い夢だからというのでもない。頭がつるつる同士だからというわけでもないだろう。だらだらと考えを巡らせ、携帯をいじっては立ち上がっているうちに十八時を回った。一応近所では工場勤務で通しているので、この時間帯に帰ることにしている。車椅子のリムを回して家の前まで来ると、郵便ポストに「不審者注意!」というチラシが挟まっていた。そういえば何日か前に隣の家のおばさんが「包丁を持っている人が出てるから気をつけてね」と言っていた。別に不安ではないが、もし見たらやっぱり怖いんだろうなとは思う。あまり気にしないようにと、チラシはゴミ箱に捨てた。

 まだ携帯のアラームが鳴る前に、家のチャイムが鳴った。出てみると警察官だった。瞬間的に身が縮む。
「すみません、朝早く。この辺で不審者が多数目撃されていて、こっちの方でも全力で見回りしてるんですけど、もし目撃したら遠慮なく警察にお電話ください」
 私は車椅子の上で「分かりました」と笑顔を作った。「よろしくお願いします」と警察官は去っていった。
「まあ、たぶんすぐに見つかるでしょ」
 荷支度を整えて、いつものように公園へ向かった。トイレは珍しく使用中だったので、すこし離れた場所から空くのを待つことにした。しかし、なかなか人の出てくる気配がない。ノックするのも何か癪なのでじっと待ってみた。二十分ほど経って出てきたのは、手に包丁を持っている男の人だった。
「え、怖い怖い」
 私は通報するべきかどうか迷った。もし今電話をして男に気づかれたらどうしよう。そんな恐怖が全身を硬直させた。男は何かきょろきょろしながら公園の中に向かっていった。今電話をかけるしかない。そう思ったが、いざ警察を呼ぶとなると、逮捕されたことが周囲にバレてしまいそうな気がして、できなかった。
「まあ、あれなら誰か通報するでしょ」
 私はゆっくりと公園を離れた。

 次の日、やはり男は逮捕されていた。銃刀法違反なので人は刺していないようだ。とりあえずホッとした。近所の人たちも「よかったねぇ」と言ってなごんでいる。私は少しの不安を抱えて公園のトイレに向かった。男が昨日あそこで何をしていたのか気になっていた。もしかしたら別の犯罪に出会う可能性も大いにある。私は意を決して「開」のボタンを押した。中は特に変わった様子もなく、カメラやその他の盗撮に使われるものも確認できなかった。男はただ単にここで用を足していたのではないか。そう思い始めた時にトイレの給水タンクを開けてみると、ビニール袋に入った拳銃が出てきた。男はこれを誰かに渡すためにここに入ったんだ。ヤバい組織のにおいがして、トイレから出ようとした。しかしこのまま出て警察に通報すると周囲への身バレに加え、現場検証とかで面倒なことになりはしないかと思い始めた。せっかく見つけた安住の地に居られなくなるのは嫌だ。私は拳銃を再び給水タンクに沈め、またいつもどおりのゆったりとした時間を過ごした。次の日もその次の日も拳銃はあった。何かこの拳銃を確認するという行為が私の中で日課になってしまった。いざとなったらこの拳銃で……と考えると胸が高鳴り、ずっと眠っていたスリルが呼び起こされる感覚に陥る。私だけが法律の個室。それはとても魅力的だった。

 いつもどおり朝七時に起き、車椅子に乗って外に出た。今日は珍しく近所の誰とも会わなかった。こういう日も悪くないと思い、私は鼻歌交じりで公園に向かった。トイレに入って時間を潰し、十八時になったので帰ろうとトイレから出た。家に帰る途中に大きな犬が前からやって来た。ナカタさんの家のミルクだ。リードをぴんと引っ張って散歩させているのは、奥さんのチカさんだった。
「こんばんはぁ」チカさんはぎりぎりとミルクに引っ張られている。
「こんばんは」
 すれ違う瞬間、ミルクが大声で吠えた。私は思わずビクッと反応して、車椅子から転んでしまった。
「大丈夫ですか?」チカさんは心配そうに近寄った。
「うん、大丈夫です。立てます立てます」
 私は立ち上がって車椅子に座った。チカさんの顔つきが変わった。
「え、足悪くないんですか?」
 しまった、と思った。冷たい汗が腋の下をつたう。
「あ、いや、治ったんです」
「治ったなら、なんで車椅子に乗ってるんですか?」
 チカさんの表情がどんどん曇っていく。何か裏切られたとでも言いたげな悲しい目だ。ミルクがまた吠える。ビクッとなってまた身体が震える。
「すみません。大きい犬苦手なんです。早くここから離れてください」
 私は語気を強めてそう言った。チカさんは黙ってこちらを見て、無言のまま立ち去った。知られたくないことを知られてしまった。もうあの家にはいられないかもしれない。一枚化けの皮が剥がれたら、障害もないのに車椅子に乗っている、人の善意を踏みにじる悪人だ。障害がないなら、車椅子に乗るな。障害がないなら、多目的トイレに入るな。障害がないなら、障害者面するな。障害がないなら、お前は「ハンディキャップに負けずに頑張っている良い人」ではない。
「あれ? なんか違うだろう、それは」
 確かに私には障害がない。でもだからといって車椅子に乗ってはいけないというのはおかしくないか。私は自分の意思で車椅子に乗っている。誰かに良く思われたいからではない。自分で自分の行動を抑制しているだけだ。ただ障害があると勝手に思われていただけだ。
「障害者に見えたから優しくして、障害者のふりをしてたら悪人扱いか?……冗談じゃねぇ!」
私は車椅子から立ち上がった。そして走り出した。あれだけ善意に満ち溢れていた近所の人の目が悪魔を見る目に変わっていく。そんな視線を全身に感じながら、私は走り続けた。公園の隅。公衆トイレ。私だけの場所。私だけが正しくて私だけが尊い場所。多目的トイレには「使用中」のマークがついていた。関係ない。私は戸を叩く。
「早く出ろや! 障害者が生意気に糞してんじゃねぇよ、カスが! ここは私だけのもんなんだよ! 風紀を乱しやがって、社会のお荷物が! 早く出ねぇと撃ち殺すぞ!」
 中から怯えたように出てきた車椅子のおばさんの襟元を掴んで殴る。二発殴っておばさんは車椅子から転げ落ちた。私は乱暴に戸を開けて鍵をかけた。真っ直ぐトイレの給水タンクに手を伸ばす。蓋を開けた。拳銃はどこにもなかった。
「なんなんだよ、もう!」
 私は給水タンクの蓋を床に叩きつけた。振動が足に伝わり、重い音と共に蓋は二つに割れた。在庫のトイレットペーパーを床に投げ、踏みつけた。壁を蹴り、トイレの便座を足で割った。
「いつか君にも分かる日が来るよ」
 夢で見たオオウナギの言葉が浮かんだ。そうか、今がその時なんだ。幸せかどうか、不自由かどうか、それは本人にしか分からないんだね。今まで勝手にこんなところに閉じ込められて可哀そうだと決めつけられてきたんだね。だからあなたは暴れていたんだね。
「警察の者ですが、開けてもらえますかぁ?」
 パトカーのサイレンの音。戸を叩く音。次第に乱暴になっていく言葉。私は床に寝そべった。床は驚くほど冷たい。目の前をカマドウマが通った。しかし全部無視する。私は目を閉じた。眠ろうと思ったのだ。眠って、夢を見て、今はもう存在しないイーランドのオオウナギがいる水槽の前に立って、「ありがとう」と伝える。こんな状況でも眠れるくらい私は自由なのだ。おまけに運気もうなぎ上り。絶対に会える。そう信じている。

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