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分断された世界とSDGs ~100年持続可能な美意識で「複線的」「動物的」SDGsを~

形式主義が蔓延ると極端に走りやすくなる。脱炭素を例にしよう。環境アクティビストは石炭を絶対悪とみる。石炭火力発電を続ける日本は劣等生のレッテルを貼られ、炭素が出ない新技術に取り組んでも後向きにみられる。企業には何百項目もの質問状が送られ、美しいキーワードをいかに並べるかで評価される。点数を稼ぐために添削屋や代筆屋が繁盛する始末だ。もっとも、お膝元の欧州ではエネルギー危機で止めるはずだった火力発電はフル稼働、米国でも環境が看板の民主党でさえ石炭産地の議員は温暖化対策を止めようとする。共和党に至っては温暖化をフェイクニュースだと真顔で主張する議員のオンパレートだ。最大排出国中国はせっせと石炭の確保に走る。世界の分断はここでも深刻だ。

「何が何でも」とは「あらゆる犠牲を払って」と同義語だ。「人新世の『資本論』」の斎藤幸平氏は経済成長を捨て(脱成長)、コミュニズムによる共同統治に移れと説く。一つの思想体系としては尊重するが、私には生産手段の共同管理が理想とも統治可能とも思えない。多様性を尊重した共同体というのは、もちろん観念的には成立するが、歴史をみれば、共同体が個人を抑圧する統治装置となった例は枚挙に暇がない。氏は持続可能な社会を縮小均衡で実現しようとしているとみえるが、それは「何が何でも」が正義となる「単線的」で、縮小均衡でも構わない「植物的」なSDGsにみえる。それは本当に持続可能であろうか。そんなSDGsは窮屈だ。

私は「複線的」「動物的」SDGsを目指したい。「複線的」とは多様な選択肢があり、別の道(alternatives)を示すことが歓迎される社会だ。人生やライフスタイルに「正解」はない。SDGsを点数で評価できると考えると、その基準が正義となる。振りかざされた正義ほど厄介なものはない。「動物的」とは自立した個人が高みを目指して面白いこと、新しいことを競うアニマル・スピリットが尊重される社会だ。人間の活動原理が社会に役立つことであれば、それは自ずと持続可能となる。その活動原理の根本は「美意識」だと思う。「美」は一意に定義できないし、その必要もないが、共同統治で決定しなくても、人類が共有できる価値観だと信じる。

そして日本は縮小均衡の老成した国より、いつも新しい発想でalternativesを示せる面白い元気な国でありたい。未来は「残す」ものでなく「作る」ものだ。

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