オルガとベンガルの青年(回顧録)

今から四半世紀も前の春のことである。

私はコルカタの、ある弁護士さんの邸宅にいて、恩師が弁護士さんと談笑しているのを聞いていた。但し当時はベンガル語が全くわからなかったので、まるで音楽でも聴いているかのように、ただ、その楽しげな音色を楽しんでいた。美味しいチャイとミシティ(インドのスイーツ)を頂きながら。

すると、さっきまで弁護士さんとベンガル語で話していた恩師が不意に日本語で私に語り始めた。

「エリアーデを知っているでしょう?エリアーデはね、カルカッタ大学に留学中に指導教授のお嬢さんと恋仲になってね。それを知った指導教授が怒って、エリアーデを追い出したの。それは当時のカルカッタで一大スキャンダルになって、今でも語り継がれているよ。エリアーデはそのお嬢さんとの恋愛を小説に書いて、そのお嬢さんも後にエリアーデとのことを本にしてね….。二人とも情熱的だねぇ。知らなかったでしょ?そんなこと。」

「えっ!あのエリアーデが?へぇー!そうなんですか!」と、私。

恩師がニコニコしながらこんな話をしてくれたことを今でもよく覚えている。弁護士さんも笑顔で、そうそう、と言わんばかりに頷いて何か話していた。宗教学者として有名なエリアーデの知られざる一面を知った時のことである。


それから随分と時が経ち、恩師はもうこの世を去られ、私は一介の主婦として子育てに奔走していた。そんなある日、なんとなくその話を思い出し、エリアーデのその小説が読みたくなった。今は便利な時代である。ネットで検索すれば、大抵のものはすぐに見つけられる。そうして手に入れたその小説『マイトレイ』は、池澤夏樹による世界文学全集第2集3巻に収録されていた。その本の中にはエリアーデの年譜もあり、エリアーデがどんな人生を歩んだのか知りたくなって、小説を読む前にそこを開いた。

1907年3月14日、(エリアーデは)父ギョルゲと母ヨアナの長男としてルーマニアのブカレストで生まれる。

ルーマニア?エリアーデはルーマニア人だったの?!

私はずっとエリアーデをフランス人だと思っていた。彼の著作の多くがフランス語で書かれていたから。

訳者解説によると、エリアーデは、祖国ルーマニアでは小説家として知られていたそうだ。それを知った時、私の記憶はまた四半世紀前の、ある夏の日に舞い戻った。

東京のとある会社で学生スタッフ(要は学生アルバイトのことである)として働き始め、他の学生スタッフ数名と共に北海道出張した時のことである。私はそこで先輩スタッフのルーマニア人留学生オルガ(仮名)と知り合った。夕食後、その会社の宿舎でオルガと私ともう1人の学生スタッフでしばし歓談した。私たちの話はたわいもないことから始まり、そのうち私ともう一人はオルガに、ルーマニアの話を聞かせてほしい、と切望した。ルーマニアといえば、その数年前にチャウシェスク政権が崩壊し、その後、国が混乱を極め、大変な状況だと聞いていた。オルガはそんな過酷な時をどのように乗り越えて、日本に留学したのだろう?また、冷戦時の東欧諸国の人々の暮らしがどのようなものであったのか知りたいという、半ば野次馬のような好奇心も否めなかった。

はじめに私が、チャウシェスク夫妻の処刑やルーマニアの孤児院の惨状をテレビで見て、衝撃を受けたことを話した。するとオルガは目に涙を浮かべて、「私も孤児院があんなにひどい状態だとは知らなかったんです…」と言った。私は咄嗟に「あ、ごめんなさい。こんな話をして…」と謝った。こんなことをしかもはじめに話すとは、なんて不躾な…と自分を恥じた。それでもオルガは気を悪くするでもなく、私達にルーマニアの話をし続けてくれたことに私は救われた。続いて、ドイツ語学科の学生だったもう一人が、「旧東ドイツでは秘密警察がいたと聞いたけれど、ルーマニアにもいたの?」と聞いた。その時、オルガが何と答えたのか、はっきりと覚えてはいないが、秘密警察がいたからといって私たちは怯えて生活していたわけではない、と言うようなことを話していたと思う(それは後に旧東ドイツ出身の友人達も話していた)。続いて私が「私達が中学で英語を勉強するように、ルーマニアではロシア語を習うの?」と聞いたら、オルガは「普通の学校ではロシア語を勉強しますが、私は学校でドイツ語を学びました。」と答えた(ちなみに話の様子から、その学校がエリート校であることが分かった)。その後も次々と私たちの質問に嫌がるでもなく答えていくオルガ。そのうち、オルガから私たちに「実は面白い話があって…」と切り出した。「なになに~?」と身を乗り出すもう一人と私。「うちでね、揚げ物に使った油で石鹸を作っていたんですけど、ある時、その油をマグカップに入れて石鹸を作っていたら、母がコーヒーと間違えて飲んでしまって…フフフ。色がまるでカフェオレのようで…。ね、面白いでしょう?アハハ!」と、心の底から可笑しそうにオルガは笑った。私達は思わず苦笑いした。とてもじゃないけどオルガのようには笑えなかった。廃油を使って石鹸を作るような生活は、きっと私達の想像以上に大変なものであったと思うから…。

そのうち話題はお互いの夢の話になった。オルガは医学部の学生で、もちろん将来は医者になりたい、と答えた。もう一人はその時レストランのアルバイトも掛け持ちしていて、接客業が性に合ってるからそういう仕事がしたい、と答えた。私はといえば、その頃すでに大学を卒業し、他大学でドイツ語の授業を聴講していた。ドイツでシュタイナー教育を学びたいと思っていたが、なかなか決心がつかないでいた。その年の春にインドを旅して、インドにも惹かれ始めていた。そんな話をグダグダと二人に話したんじゃないだろうか、よく覚えていないけれど。

インドの話をしているうちに、なぜか私は二人の前でバングラデシュの国歌を披露した。(どんな経緯で歌うことになったのか、私は全然思い出せない。お酒は入っていなかったと思うのだが…。でも、普段は人前で歌うのが大の苦手だから、これは異例中の異例なことであった。)

 インド(ベンガル)の詩聖タゴールが作ったバングラデシュの国歌は、大学時代、恩師から教わっていた。

Amar sonar Bangla, Ami tomae bhalobasi…

すると突然オルガが、「私の金色のベンガル、私はあなたを愛しています、という意味でしょう?」と言った。私はとてもびっくりして、半ば興奮気味に訊ねた。「え!オルガ、ベンガル語がわかるの?!」オルガは「はい。私の恋人はバングラデシュ人なんです。彼に少しベンガル語を教えてもらいました。」と、照れながら言った。すかさず私はオルガに聞いた。「どこで知り合ったの?!」「日本語学校で知り合いました。」と、オルガ。それを聞いてもう一人も興奮気味に言った。「ルーマニアから日本に来て、彼がバングラデシュ人とは、なんて国際的なの!」そこから私たちの話題はオルガの恋の話一色になった。

私はオルガに、「ルーマニア人とベンガル人のカップルって他にいるのかな?いるにしても、すごく少ないんじゃない?」と聞いた。するとオルガは言った。「そうですね。でも昔、ルーマニアの作家がベンガルの女性と付き合っていたと聞いたことがあります。」それを聞いて私は、ルーマニアの作家でそんな人がいるなんて!その作家とベンガル女性はどうやって知りあったの?!と思ったが、それ以上追究することなくその話は終わった。オルガの口からその作家の名前が出てくることもなかったし、私もそこまで聞かなかった。

でも今ならわかる。そのルーマニアの作家こそ、エリアーデだ!!!

ということは四半世紀前の春と夏、私はコルカタと北海道で、エリアーデとマイトレイの恋の話を聞いていたということか…!なんという偶然!


オルガとベンガル人の彼はその後、どうなったのか、私は知らない。二人は結婚も考えていたようだけど、今も一緒にいるのだろうか。一緒にいるのだとしたら、今どこで暮らしているのだろう?あの時の話から推測すると、多分、日本以外の国なのだろう。

二人の恋の話の続きが知りたいけれど、こればかりはどんなにネットで検索しても出てこない。残念なことに。

ま、でも、2人が幸せであってくれたらそれでいい…!

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