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What's Stax ? Why Stax Now ?⑨再構築~内部の亀裂~崩壊への足音

『キング牧師の死』は、アメリカに社会的、政治的、文化的な大変動を起こし、スタックスの方向性にも大きな影響を与えました。

「黒人から愛される白人の会社」であったスタックスも、メンフィスの急激な温度変化によって、人種が混ざり合ったスタックスは自然に消えていきました。

「どすんと楔を打ち込まれたような感じだね。少なくとも、社内にあった人々の疑念があれで外にさらけ出されたのは間違いない。結束を固くして、一緒に仕事を続けようと努力はしたが、あれ以降、会社は大きく変わってしまった。協力して作り上げるという楽しい気分はもうなかった。何かが失われてしまった。それが何なのか、はっきりとは言えない。でも、変わったのは間違いないし、もう二度と戻れないというのもわかる。そういう感じだったよ。みんな自分の殼に閉じこもるようになってね、昔のようにオープンじゃなくなって、人と人との距離も遠くなった」

ジム・スチュアート曰く

1968年~1972年のスタックス

「オーティス・レディングの早逝」「アトランティック・レコードとの契約解消」を受けて、スタックスは自らの再構築を求められました。


アトランティック契約解消後の最初の大ヒット

1968年にデトロイトのプロデューサー: ドン・デイヴィス(Don Davis)とのジョニー・テイラーのタッグによる「Who's Making Love」がヒットして、再建に向けて勢いづきました。


「Soul Explosion」

アル・ベルの指導の下、わずか数か月で 27 枚のアルバムと 30 枚のシングルからなる印象的なコレクションの再構築とリリースを進めました。

「1969 Stax sales summit」

壮大なリリース戦略をサポートするために企画されたイベントで、「Getting It All Together」をテーマに掲げ、スタックスのセールスチームや関係者が集まり、今後の販売戦略を話し合いました。

このセールスサミットは、新しいリリースのプロモーション計画やマーケティング戦略を練り上げる場となり、スタックス・レコードの市場での影響力を高めることに成功しました。


当時の広報責任者ディーニー・パーカーは次のように回想しています。

「私たちは昼も夜もマーケティングと販売活動を計画し、力強い曲を生み出しました。 私たちは何週間も年中無休で働き、新しいアーティストとベテランのアーティストの両方の録音を行いました。。 私たちは、 Soul Explosion でゲームの頂点を目指して努力しました。」

Deanie Parker

アル・ベルは当時の先進的な戦略を次のように回想しています。

「マルチメディアが存在する前から、私たちはマルチメディアでした。 メンフィスでのその週末、私たちは壁に映画館のスクリーンほどの大きさの大きなプロジェクションを設置し、カーラ・トーマス、ブッカー・T&ザ・MGズ、ウィリアム・ベル、アルバート・キングといったトップアクト全員によるライブパフォーマンスを散りばめたビデオを上映しました。その週末のエネルギーは、音楽業界がこれまでに見たことのないものでした。」

Al Bell

「Soul Explosion」キャンペーンと「1969 Stax sales summit」の成功は、スタックス・レコードがソウル音楽の重要な拠点としての地位を確固たるものにし、1970年代に向けての勢いをつけることに貢献しました。


ガルフ・アンド・ウェスタンからの株の買い戻し

1970年代初頭、ガルフ・アンド・ウェスタン(Gulf and Western Industries)の関与から独立を取り戻すために、株の買い戻しに成功しました。これにより、再び独立した運営が可能になり、レーベルの将来を自らの手で形成できるようになりました。

ドイツ・グラモフォンからの資金援助

1970年、ドイツ・グラモフォン(後のポリグラム)からの資金援助を受けることに成功しました。この支援は、スタックスが財政的な基盤を強化し、新しい展開に向けて動き出すための重要なステップでした。

ポリドール・レコードとの配給契約

ドイツ・グラモフォンからの資金提供を受けたことで、スタックスはポリドール・レコード(グラモフォン・フィリップス・グループの一部)との配給契約を結びました。この契約により、スタックスの作品は国際的により広範囲に配布されるようになり、レーベルのグローバルな影響力が増大しました。

サブ・レーベルの発足

音楽のジャンルを拡大するために、いくつかのサブ・レーベルも設立
Partee Records】 
コメディ部門のサブ・レーベル
【Gospel Truth】
 ゴスペル音楽に特化したサブ・レーベル
Respect Records】
女性アーティストに焦点を当てたレーベル

社会活動への関与

アル・ベルは、アフリカ系アメリカ人コミュニティの様々な活動に深く関与しました。彼はジェシー・ジャクソン牧師の政治組織「オペレーションPUSH(People to Save Humanity)」への資金提供など、社会的な取り組みにも力を入れていました。


「キング牧師の暗殺」をきっかけとして、スタックス内部にも埋めることができない大きな亀裂が広がっていきました。

MGメンバーの離脱

1970年の秋までに、スティーブ・クロッパーとブッカー・T・ジョーンズがMGに対する扱いに不満を抱き、スタックスを辞めました。
ドナルド・ダック・ダンの徐々にスタックから離脱。
アル・ジャクソンは、ハイ・レコードでアル・グリーンのバックアップ。

セキュリティ強化

「建物中の空気に、被害妄想と暗黙の恐怖が漂っていたんだよ」
まるで軍の秘密基地にいるかのような空気。スタジオもオフィスも、武装した訓練済の犬を連れた警備員が常に巡回している。何よりも驚いたのは、設置されていた防犯用の遠隔操作カメラだったそうだ。

1970年ジェリー・ウェクスラーがスタックを訪れたときの感想

問題はあの警備さ。頑丈な鎖の付いた駐車場のフェンスとか、玄関前の警備員とか。空気そのものが、全部の雰囲気が完全に変わっちゃったんだよ

スティーブ・クロッパー曰く

ロゴの変更

1971年半ばにスタックスのロゴが微妙に変更され、指を鳴らす手の色が青から茶色に変更されました。これは、レーベルのアイデンティティの進化を象徴するもので、黒人企業(スタックス設立当初とは全く違う)へと変質していったことを意味していたのかもしれません。

1972年: コロンビア・レコードとの供給契約締結

当時の CBS 側の資料によると次のように表現されています。

クライヴ・デイビス(Clive Davis)社長は、スタックスからのレコードを市場に出した時点で、それが売れようが売れまいが「出荷分」の枚数に応じた支払いを スタックス に対して行うように「有無を言わせず」命令した』

スタックスが制作する音楽作品の全国的な配布と流通を担うパートナーとして、コロンビア・レコードの広範囲に及ぶ流通ネットワークを利用することで、スタックスの音楽が全米のさらに広い聴衆に届くようなることは、双方にとってメリットがある話でした。


スタックスとコロンビア間の契約の詳細な条項やその実施に関する具体的な問題については、公開されている資料からは限られた情報しか得られませんが、この提携がスタックスの歴史において重要な意味を持っていたことは間違いありません。(何か胡散臭いのです。)

1972年8月20日「Wattstax」

ロサンゼルスのメモリアル・コロシアムで開催された「Wattstax」コンサートは、スタックスによって企画された、アフリカ系アメリカ人コミュニティの音楽と文化を祝う大規模なイベントでした。

このコンサートは、1965年のワッツ暴動から7年後の記念日に開催され、"ブラック・ウッドストック"とも称されるほどの影響力を持ちました。


1972年11月

スタックスの恐るべき民間警備員であるジョニー・ベイラー(Johnny Baylor)は、ブリーフケースに現金13万ドルとスタックスからの50万ドルの小切手を所持したとしてメンフィス国際空港で拘束されました。

ベイラーは「現金は自分のものだ」と主張しましたが、満足のいく説明がされておらず、このことをきっかけにFBIとIRSは、スタックスで何が起こっているのかを嗅ぎ回るようになっていきました。



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