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【真面目に】カンザス・シティのジャズは音楽を聴かない悪徳政治家の仕業?

ニューオリンズ発祥のジャズとは異なる 独自の発展を遂げたカンザス・シティのジャズは 後のモダン・ジャズにもたらした影響を極めて大きいと考えます

「カンザス・シティのスタイルを自覚のないままに作った人物が まったく音楽を聴かない男 政治ボスのトム・ペンダーガストだった。しかし、彼は悪徳とギャングの支配を奨励しカンザス・シティを取り締まりの緩やかな都市に変えることによって 音楽サービスのためのもうひとつの急成長の市場を作ってしまった」(ロス・ラッセル著書『カンザス・シティ・ジャズ』)


トーマス・ジョゼフ・ペンダーガスト(Thomas Joseph Pendergast)


禁酒法(1920年~1933年)下 カンザス・シティだけは治外法権で 酒場はオールナイト営業で 全米一の歓楽街として栄えていました

トーマス・ジョゼフ・ペンダーガスト 

という民主党の悪徳政治家が州の黒幕として街を牛耳って 自分の都合のいいように法律を変えていたのです


1925年 民主党員として市会議員に選出

民主党のマシーン(利権や猟官制に基づく集票組織に対するアメリカ合衆国における呼称)のボスとして 市政をコントロール

彼は醸造工場から酒を買わないと酒場は開業できない
彼のセメント工場からセメントを使わなければ建物も造れない

1929年の大恐慌が起こっても カンザス・シティの経済が比較的安定していたのは ペンダーガストによるビジネス・インフラが築かれていたからです


1930年代初頭 彼が支配していた酒場は数百軒ほどあり 演奏旅行で大陸を横断する楽団が立ち寄り 仕事を求める多くのジャズメンを吸収することになりました


1933年の禁酒法以後は ペンダーガストの勢力は衰退

1939年 脱税の罪で逮捕される


有名は話としては

ペンダーガストの部下は 後の第33代大統領 ハリー・S・トルーマン



カンザス・シティのジャズの特徴


カンザス・シティのジャズは ニューオリンズやシカゴのジャズと違っている特徴は

ブルースとジャズというスタイルの異なる音楽が緩やかにつながっている点

簡単に言えば 『ブルースの歌を楽器で再現化』といったところでしょう


代表するジャズマンは 『カウント・ベイシー』

ベイシーは バンドのプレーヤーのほとんどが楽譜を読めないことから 短く簡略化されたメロディである『リフ』を活用して 頭で覚えただけで演奏できる『ヘッド・アレンジ』を行いました


人間の肉声に近い音を奏でる多くのサックス・プレーヤーを生み出しました

『バド・ジョンソン』『ベン・ウェブスター』『レスター・ヤング』

そして 1920年8月29日に カンザス・シティ郊外で生まれた

『チャーリー・パーカー』


ギャングがオーナーのクラブでは【投げ銭方式】が採用されていて その金はジャズメンの取り分となっていました

ジャズメンが演奏が良ければ お客さんの入りも増えるので ギャングは 客相手の営業終了後 ジャズメンが自由に演奏を続けることは許可していたそうですが 裏ではジャズメンへの「見せしめ」として【リンチ】が行われていました

そんな カンザス・シティも 禁酒法の終了とともに衰退していき 

ジャズメンたちは ニューヨークへと移っていきます



「ペンダーガストの使い走り」が合衆国大統領


カンザス・シティの洋品店店主から大統領となった「ただのアメリカ人」

ハリー・S・トルーマン


1922年:ペンダーガストの支援を受けてジャクソン郡の判事に就任

「農業地帯であるジャクソン郡の未来は近代的な道路整備にかかっている」

との確信して道路整備プロジェクトを進めました


この事業のお金は すべてペンダーガストの会社へ流れ カンザス・シティの非合法ビジネス・システムの基盤となっていきます


1934年:ペンダーガストの支援もあって上院議員に当選

ペンダーガストの「自分の力を中央政界に及ぼしたいという野望の一環」だったと思われます

1940年:上院議員に再選(この時にはペンダーガストは失脚していたので独自の選挙戦)軍事費の不正使用に関する「トルーマン委員会」設立

1944年:ルーズベルト大統領下の副大統領に就任

1945年:ルーズベルト大統領急死(1945年4月12日)で大統領に昇格

1945年8月6日:広島 8月9日:長崎 に原爆は投下されました


ピアニストになることが夢だった ハリー・S・トルーマン


1958年にリリースされたカウント・ベイシーのアルバム

『The Atomic Mr. Basie(E=MC²)』


長崎県生まれの被爆2世である筆者にとっては 何とも複雑な気持ちです


ジャズの主戦場はニューヨークへ


1927年 デューク・エリントンは ニューヨーク・ハーレムの高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」と契約(1927年~1931年)します

オーナーは アイルランド系ギャングオウニー・マドゥン

当時のクラブの出し物は 

✅ 黒人への偏見を反映したジャングルの土人や南部農園の黒人描いた寸劇

✅ 露出度の高い衣装で出演する黒人コーラス・ガール

コットン・クラブのお客は全員裕福な白人 演奏・演じるのは黒人

デューク・エリントンは「コットンクラブ」で作曲してレパートリーを増やしながら クラブの演奏がラジオ放送されたおかげでエリントンの名は全米に知れ渡っていきました

デューク・エリントンがツアーに出て不在の時は キャブ・キャロウェイ楽団が代役として出演


1936年10月 カウント・ベイシー・バンドは カンザス・シティをあとにしてシカゴ経由でニューヨークに進出します

後押したのは?大手レコード会社となるMCAに橋渡しをした 白人の音楽プロデューサー ジョン・ハモンド 

1937年にデッカ・レーベルから発売された「ワン・オクロック・ジャンプ」がヒット


ベニー・グッドマン グレン・ミラーらの白人主体の楽団とともに 一大スウィング・ブームを巻き起こします


次号へ続く


悪徳政治家トム・ペンダーガスト

「自覚のないままに作った」カンザス・シティのスタイルが 

ニューヨークに持ち込まれ 

ジャズ史における最大の革命 ビ・バップ誕生

に結び付いていきます



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