見出し画像

サム・クックをキーに音楽と映像で学ぶ1960年代前半米国アナザーストーリー


1961年1月20日 ジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任


20世紀生まれ最初の大統領 43歳8か月 合衆国史上もっとも若くして選ばれた大統領が誕生しました


ケネディ政権は発足後『黒人解放闘争』の盛り上がりに直面します

1961年5月4日からスタートする『フリーダム・ライド』は 南部の人種対立がいかに醜く激しいものなのかを浮き彫りにしました



サム・クック(Sam Cooke)


1960年初頭で サム・クックほど「黒人としての誇りを持ち続け」「黒人である自分は社会に何を貢献できるか?」を常に考えていたシンガーはいませんでした

✅ソウル・シンガー兼プロデューサー
✅音楽出版社・レコード会社の設立者&経営者
✅人種者別と闘う人


19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり ゴスペル界ではアイドル的人気を博しました

1957年:ソロ歌手としてR&Bに転向し『ユー・センド・ミー』がヒット

1958年:音楽出版社と「SARレコード」を設立(当時としては画期的な自らの著作権を管理)して 黒人歌手の活躍を積極的に応援しました

1959年:キーン・レコード時代に録音し未発表曲『ワンダフル・ワールド』がヒット

1960年:大手RCAビクターから『チェイン・ギャング(Chain Gang)』をリリース

歌を通じて「人が人種や性別関係なく様々な人種と共存するには お互いを理解し尊重し合うことが必要だ」と社会に訴え続けました

All day long they're saying, hoh ah(一日中ホッアッって掛け声かけて)
Hoh ah, hoh ah, hoh ah
Well don't you know(なあ知ってるよな?)
That's the sound of the men(野郎どもの出すあの声)
Working on the chain, gang(鎖に繋がれ働いてんだ)


1963年1月12日:マイアミのハーレム・スクエア・クラブでライブ・レコーディングも兼ねたライブが行われました

白人ポップス・リスナーに訴求する都会的なソウル・シンガーというサムのイメージを毀損することを恐れたレコード会社は ライブ・アルバムとしてリリースしませんでした

1985年なって 白熱のライヴ録音盤『Live at the Harlem Square Club, 1963』としてリリースされます



ハーレム・スクエアでのサム・クックこそが「本当」のサム・クック

マルコムX モハメッド・アリ NFLのジム・ブラウンとの親交を深めていき公民権運動に関与していくようになるのは必然だったのでしょう


1963年8月28日:ワシントン大行進


【ワシントン大行進( March on Washington for Jobs and Freedom )】奴隷解放宣言から100年目にあたる1963年の8月28日、アメリカ合衆国の首都ワシントンで、黒人を中心にした二十数万人の大群衆が「仕事と自由」のために結集し、黒人差別の即時撤廃を要求して行った歴史的デモンストレーション(引用:日本大百科全書)


『勝利を我等に(We Shall Overcome)』を歌ったのは白人のジョージ・バエズ


そしてピーター・ポール&マリーがボブ・ディランの『風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)』


ボブ・ディランは 1963年6月12日(ワシントン大行進の2か月半前)に怒った公民権運動の活動家メドガー・エヴァース銃殺事件について歌った『しがない歩兵(Only A Pawn In Their Game)』を披露しました


キング牧師が平和的抗議を行うという約束しましたが ジョン・F・ケネディ大統領を含む当局は 集会が暴動になることを公然と懸念していました

公民権運動に賛同したアメリカ内外の多くの芸能人や文化人も行進に参加しました

マーロン・ブランド、チャールトン・ヘストン
ハリー・ベラフォンテ、マヘリア・ジャクソン、ジョセフィン・ベーカー、レナ・ホーン、サミー・デイヴィス・ジュニア



1963年11月22日:ケネディ大統領暗殺


テキサス州ダラス市(現地時間12時30分)遊説中の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがパレード中に銃撃され死亡した暗殺事件が起こりました

奇しくも サム・クックがアポロ・シアター一週間公演の初日でした

出演前に暗殺事件のニュースを聞いたサム・クックは ショックを受けてその後の公演をキャンセルします



ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(A Change Is Gonna Come)


サムクックは たまたまラジオで流れていたボブ・ディランの『風に吹かれて』を聴いて触発され『A Change Is Gonna Come』を作ったそうです

『A Change Is Gonna Come』は 1964年2月にリリースされたアルバム『エイント・ザット・グッド・ニューズ(Ain't That Good News)』収録曲


1964年2月7日の『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』で初披露されます(この時の映像は残っていません)

There been times that I thought I couldn't last for long
But now I think I'm able to carry on
It's been a long, a long time coming
But I know a change gonna come, oh yes it will
何度もくじけそうになったことがある
でも今は前に進めそうな気がする
本当に本当に長い時間がかかった
でも世界は変わろうとしている そう あともう少しだ



1964年2月25日WBA/WBC世界統一ヘビー級タイトルマッチ


ソニー・リストン(王者)vsカシアス・クレイ(=モハメッド・アリ)

前評判でアリは圧倒的不利と言われながらも 6回終了TKOで勝利して新チャンピオンになります 


アリは勝利を祝うパーティーを早々に後にして3人(マルコムX、ジム・ブラウン、サム・クック)が待つモーテルに向かいます


映画「あの夜、マイアミで One Night In Miami」


翌朝 アリは『ネーション・オブ・イスラム(NOI)』への加入を発表

『奴隷の名前だ』という理由で本名(カシアス・クレイ)を捨て『モハメド・アリ』と名乗るようになります


数日後 サム・クックはアリをニューヨークのコロンビア・スタジオに連れて行き 新しいチャンピオンの為の曲をプロデュースします



1964年7月2日:公民権法が連邦議会で成立


リンドン・ジョンソン大統領が「Civil Right Act of 1964)」に署名

1965年8月6日には投票権法にも署名


1964年7月7日/8日「コパ・カバーナ」


サム・クックは ニューヨークの高級白人クラブで「コパ・カバーナ」でライブを開催

裕福な白人の客層に対して ポピュラー・スタンダードを披露し 時にはブラックユーモアを交えながら パワーあるゴスペル・ソウルで熱唱します


1964年10月アルバム『Sam Cooke at the Copa』としてリリース(彼の生存中の唯一のライブ・アルバム)

このライブは「白人迎合」「本当の姿ではない」と色々な誤解を生みますが

スプリームス、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイが「アット・ザ・コパ」と銘打ってライブ盤をリリースするようになります

これはモータウン・レコードが サム・クックの立ち振る舞いやポピュラーな感覚に倣ったと思われます


1964年8月2日


『トンキン湾事件』とは?

北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇が南ベトナム艦艇と間違えアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件

ジョンソン大統領は戦争遂行の権限を議会に求め 圧倒的多数でこれを承認され アメリカはこれを契機に北ベトナムの爆撃(北爆)と地上部隊の大量派遣に踏み出すことになり ベトナム戦争に突入していきます


しかし1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手して

【事件の一部はアメリカ合衆国が仕組んだもの】だったことを暴露します


1964年12月11日


サム・クックは1964年12月11日に多くの不可解な部分がある事件に巻き込まれて射殺されました

公民権運動への積極的な関与が 早すぎる死を招いたという説もありますが真相は闇の中です


サムの突然の死から10日後

1964年12月22日

『A Change Is Gonna Come』は「シェイク」のB面としてシングル・リリースされます



マルコムX暗殺


1965年2月14日 ニューヨークのマルコムXの自宅がNOIメンバーにより火炎瓶で襲撃され この時は無事でしたが 

1965年2月21日 ニューヨーク・オーデュボン舞踊場でマルコムXは暗殺されます

同じ日 モハメド・アリのアパートでは不審火が発生します



プロとして全盛期を迎えていたジム・ブラウンも1965年のシーズンを最後に数々の記録を残して29歳で突然現役を引退します

1967年4月28日 モハメド・アリは徴兵拒否を表明したことから有罪確定の前にチャンピオンベルトを剥奪されます




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?