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ビリー・ホリディの宣戦布告とミントンズ・プレイハウス

「ブルース」は、しばしば人種差別や貧困などの問題に焦点を当てた歌詞を持っていたこともあって、白人の聴衆にとっては居心地が悪いものであったのかもしれません。

一方「ジャズ」は、インストゥルメンタルが主体で、歌詞があっても社会的な問題を扱うことは少なかったため、白人の聴衆に受け入れられやすかったのかもしれません。

1938年、ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジにオープンしたナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』

オーナーのバーニー・ジョセフソンは ユダヤ系ラトヴィア移民二世
店のポリシーは「人種混合」 (当時は異例中の異例)

若者も後期高齢者もいかなる肌色のお客様も平等なサービスを謳う一流クラブ

このクラブの専属歌手は ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)

このクラブで名曲『奇妙な果実(Strange Fruit)』は初めて歌われました


   Southern trees bear strange fruit,
   Blood on the leaves and blood at the root,
   Black bodies swinging in the southern breeze,
   Strange fruit hanging from the poplar trees.

南部の木は 奇妙な実を付ける
葉は血を流れ 根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている



『奇妙な果実』はコロンビア・レコードが録音を拒否したので、ミルト・ゲイブラーが設立した『コモドア・レコード』で発売されヒットしました。(1939年7月22日付け『ビルボード』チャートの16位)

「奇妙な果実」を作詞・作曲したのは、ユダヤ人教師エイベル・ミーアポル。彼は、高校で英語を教えていた人物で、熱心な共産主義者であり先進的な思想家、そしてまた兼業のライターであり詩人でもありました。

音楽が『アメリカの人種差別や隔離政策』を取り上げることは一切ありませんでしたので、『奇妙な果実』は、公民権運動の火付け役であり
白人社会に対する宣戦布告だったのかもしれません。

1938年にテナーサックス奏者:ヘンリー・ミントンによってニューヨーク・ハーレム設立されたジャズ・クラブ
ミントンズ・プレイハウス』がオープンします。

スゥイングミュージック人気が下降線となってきた頃、ビックバンドの楽譜通りの演奏に飽きた黒人ジャズ・アーティストは、クラブ営業終了後の深夜に集まって自由なジャム・セッションが行うようになりました。

そこで『ミントンズ・プレイハウス』では、
毎週月曜日の夜にハウス・バンド(クラブ専属バンド)と
飛び入り自由というジャム・セッションを行うようになります。

このジャム・セッションが噂を呼んで、クラブは繁盛します。
当時のマネジャーだったテディ・ヒルは、集まってきた
アーティストにはタダで食事と飲み物を振舞っていたそうです。

<ミントンズ・プレイハウスに集ったミュージシャン達>

セロニアス・モンク、ケニー・クラーク、コールマン・ホーキンス、
チャーリー・クリスチャン、チュー・ベリー、ドン・バイアス、
ミルト・ヒントン、メアリー・ルー・ウィリアムス、レスター・ヤング、
ベン・ウェブスター、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなど


1941年のアメリカ参戦後は、多くのクラブが閉店に追い込まれ、若手ジャズ・アーティストが兵隊にとれられていき、行き場を失ったジャズ・アーティストは 『ミントンズ・プレイハウス』群がるようになっていきます。

そうなると、腕に自信がある人も、さほど上手でもない人も集まってきます。

それで、ハウス・バンドは、わざと難しいリズルや意表をつくコード進行などを行っていき、「ジャズの実験場」といった感じで新しい試みを楽しんでいました。

この『ミントンズ・プレイハウス』での動きが、ビ・バップ革命となります。



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