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今だからこそ黒人音楽のルーツを知ってビジネスに活かすことが重要な理由

黒人霊歌は文字文化を持たない黒人奴隷が創造したイノベーティブな音楽


『ワーク・ソング』

労働時のかけ声のような感じで歌われていたもので、大勢での作業時にリズムをとるために用いられていたものです。

『コール&レスポンス』
主に歌唱の形式で用いられて、一人が歌うと、もう一人がそれに続く歌詞を歌うという形式。このように交互に歌い合うことで、グルーヴ感やコミュニケーションを生み出すことができます。


『フィールド・ハラー』
一人で労働に従事している時 あるいは集団の中でも共同作業でなく個人的に作業している時(木綿摘みなど)に即興的に歌われたもの。各々が別の場所で働く場で歌われたもので『ワーク・ソング』と違うのは、リズムがないということと、自由に思いつくまま歌うスタイルで、厳しい生活を一時忘れるための逃避の手段であった思われます。


これらの音楽形式は、アフリカ系アメリカ人の奴隷たちが自分たちの文化を維持し、苦しい労働に対する精神的な支えを得るために創造されたものです。自分たちの苦しみや悲しみを表現し、心を励まし合うために音楽を活用し、それがこのような新しい形式を生み出すきっかけになったと考えられています。

このような形式には、彼らが持つ文化や伝統、信念、人生観、コミュニティや祖先崇拝、自然への敬意などが深く反映されていて、実にイノベーティブで素晴らしい創造力です。

「見えない教会」と「黒人霊歌」


農場経営者(奴隷所有者)は、奴隷たちがキリスト教を受け入れることを歓迎していたものの、奴隷たちが団結して暴動を起こすことを恐れて、【読み書きを習うこと】 【居住地から勝手に外にでること】 【奴隷だけで集会をもつこと】 【アフリカの呪術的行為を行うこと】 【太鼓を叩くこと】などを禁止します。

また、奴隷たちは、白人のキリスト教会には入ることができません。

そこで、黒人は自分たちで秘密裏に組織を立ち上げます。これが「見えない教会」と言われて、奴隷たちが秘密裏に集まって信仰を守る場所でした。

「見えない教会」を奴隷所有者に発見されると厳しく罰せられ、解散させられます。従って、礼拝は真夜中に行われ、独自の歌や踊りを用いて信仰を表現し、困難な現実から逃避することができて、自分たちの言語や文化を守り、共有することを目指しました。

文字文化を持っていない黒人奴隷は、聴いて覚えた賛美歌などに「ワーク・ソング」「コール&レスポンス」という黒人独自の要素を加え、歌ったり、踊ったり、語ったりすることで『黒人霊歌』を創造していきました。
そして、それを聴いた人が真似をして、記憶して、口頭で後世に伝えるということを繰り返していたはずです。

伝言ゲームなので、聴いたことを正しく理解し、次の人に正しく伝えるというのはとても難しく、単純な旋律ならばまだしも、規模が大きくなっていったり、旋律が複雑になっていったりすると、正しく記憶することが難しくなってきます。

また、黒人奴隷たちは、厳しい労働や悲惨な生活に耐えるために、互いに励まし合うためのコミュニケーションそして、スピリチャルな歌詞は黒人同士の連絡の「暗号」としても使われたそうです。

「歌」という媒体を通して、南部黒人奴隷を北部ないしカナダなどに逃がすための組織『地下鉄道』※と密接にリンクして、黒人霊歌の暗号化という発想になっていったのでしょう。
例)「乗客」=逃亡奴隷 「駅長」=逃亡計画を把握している人 「駅」=逃亡中の隠れ家 など

『地下鉄道』とは
奴隷制度下のアメリカにおいて、逃亡奴隷が自由の地まで逃げるための秘密組織やネットワークのことを指します。奴隷を地下鉄路を通って運ぶのではなく、秘密のルートを通じて逃亡奴隷を自由の地まで案内することに由来しています。


黒人霊歌で暗号が隠されている楽曲の一部をご紹介します。

「スウィング・ロウ・スウィート・チャリオット」
この歌詞には『地下鉄道』の隠語である「チャリオット」という単語が含まれています。「I looked over Jordan, and what did I see?」というフレーズがあり、これは、オハイオ川を指す言葉です。オハイオ川は『地下鉄道』のルートの一部として使われていたため、このフレーズは逃亡奴隷にとって有用な情報を提供するものでした。

「ウェイド・イン・ザ・ウォーター」
この歌詞には、逃亡奴隷が川を渡る際に使われた合図が含まれています。「ウェイド・イン・ザ・ウォーター」は、川の水位が深すぎる場合には歩いて渡り、そうでない場合には泳いで渡ることを意味していました。また、歌詞の中には「神の川」というフレーズが登場することがあり、これは、逃亡奴隷にとって安全な場所である北部諸州を指していました。

「モーゼス・ゴーン・アップ・トゥ・エジプト」
この歌詞には『地下鉄道』の隠語である「エジプト」という単語が含まれています。「Let my people go」というフレーズは、モーセがファラオに対して奴隷を解放するように要求した言葉を参照しているとされています。

厳しい環境下だからこそ、【見えない教会】で同志と一緒になって、黒人霊歌を歌って踊る時間が、唯一「自分らしく生きることができる瞬間」だったのかもしれません。

そこで、同志で意見交換しながら、見様見真似で覚えた賛美歌にアフリカの独自のリズム感などを融合させて、黒人霊歌という独自の音楽スタイルを創造していったのでしょう。
そして、生活の知恵として、歌詞を暗号化して、同志への「伝達手段」にも出来るようにしたと考えられます。

素晴らしすぎるイノベーティブな発想力だと思いませんか?



ブルースは奴隷解放後に少し自由な時間を得た黒人が創造した音楽


「ブルース」の起源は諸説ありますが、「ワーク・ソング」や「フィールド・ハラー」そして「黒人霊歌」のエッセンスも加えて、1865年の奴隷解放によって食事・睡眠・労働以外の自由な時間を得た黒人たちが「神ではなく自分たちについて歌いだした」のが始まりです。

自らのおかれた理不尽な境遇を歌に託した「ブルース」は様々な文化と融合
していく中で、アイルランド人やスコットランド人などの白人たちが持ってきた「バラッド」が融合されてできたものという説が一番の有力説です。

「バラッド」とは?
主にイギリスやアイルランド、スコットランドなどの民間伝承から生まれた歌謡の一種で、物語を歌ったものを指し、古くから伝わるものが多く、中世の叙事詩や伝説を題材にしているものもあります。「バラッド」の特徴としては、簡潔な詩形やリズムの単調さ、情緒的な表現、そしてしばしば悲劇的な物語が挙げられます。


19世紀後半に、南部にギターとハーモニカが入ってきて、現代の「ブルース」という音楽スタイルが形成されていきます。

「ブルース」の「ブルー(青)」は、『憂鬱』という意味も含んでいます。
黒人は、奴隷解放後も土地所有者はなれずに「借地小作人」として厳しい生活を余儀なくされ、やり場のない怒り、そしてブルーな感情を吐き出すのが「ブルース」だったのです。
「ブルース」の歌詞には、政治的メッセージや歴史的な事件などに関してコメントすることはなく、個人的な苦悩を歌い上げるのも特徴です。

奴隷解放後から数十年間で、「ロック」などの現代ポピュラー・ミュージックの基礎となる「ブルース」という音楽形式を、創造していった黒人の発想力には驚かされます。


ニューオーリンズの娼館で育まれた娼婦に愛されたジャズ


ニューオーリンズは、ミシシッピー川河口に位置し、三角貿易の拠点であり、またアフリカから連れてこられた黒人奴隷が売買された場所で、重要な港都市として発展しました。

多様な人々が集まり、音楽・食文化・言語など様々な文化が混ざり合い、独自の文化が生まれます。【ニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)】【カリブ海の島々の陽気な踊り】【スペインの民謡】【フランスのダンス音楽】【イギリスのマーチや賛美歌】などが混在していた街でした。

ニューオーリンズは早い時期から、他の南部都市と比べると黒人奴隷に「自由」を与えていて、諸権利を明確にしていました(日曜日と宗教上の祝日には強制労働の免除など)

クレオールの存在

フランス人・スペイン人とアフリカ人やネイティブ・アメリカンを先祖に持つルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫が【クレオール】と呼ばれる人々です。
【クレオール】は、奴隷解放までは白人階層の各家庭の家族として、黒人奴隷と比べるとある意味特権的な生活をしていました。ニューオーリンズ市民として教育を受けることも 商売することもできて クラシックのオーケストラの楽団員や音楽教師といった人も存在していたのですが、、、
 
<1876年:ジム・クロウ法(1964年まで存続)成立>

このジム・クロウ法には、一滴でも有色人種の血が流れているのであれば有色人種としてみなすという「一滴規定(One-drop rule)」が盛り込まれていたことによって【クレオール】の身分は急落します。

<1894年:【クレオール】を黒人と同じく処遇するという法案が成立>

【クレオール】は、公職から追放され、家業を奪われ、カトリック教会から登録が抹消されて街の中心部からも追い出されるようになりました。
白人からの黒人からも敵対視され【クレオール】は奈落の底に落とされたのです。

南北戦争に負けた南軍楽隊の楽器が、安い値段で売られるようになって、貧しい黒人でも管楽器など手に入れる事ができるようになります。
黒人も【クレオール】も何か仕事をしてお金を稼いでいかないと生活できないので、手に入れた楽器でブラスバンドを始めましたりしました。

『西欧音楽の素養があった【クレオール】』『楽譜は読めないが独自のフィーリングとリズム感を持っている黒人』が交じり合って独特の音楽表現が生まれていきます。

ストーリーヴィル(Storyville)

「ストーリーヴィル」は、ニューオーリンズのフレンチ・クォーターの一部に、1897年に設置され1917年に閉鎖されたレッドライト・ディストリクト(飾り窓地区)です。「ストーリーヴィル」が設置された最大の目的は、売春が蔓延することを避けるため、特定の地区に娼館を集め、ニューオーリンズ市議会が定めた公娼制度で管理することでした。

「ストーリーヴィル」の娼館は、一般的に「露店」と呼ばれる2階建ての建物にありました。客は1階のバーで飲み物を注文して、娼婦を選び、交渉するために2階の部屋に案内されます。ここで、客と娼婦は、料金やサービスの内容などについて話し合いを行い、合意が成立すれば、部屋で性的な行為が行われました。娼婦と客の取引は、一律ではなく、場合によっては値段やサービスの内容が交渉可能であったとされています。

娼館は、金持ちの客を引き付けるために、女性たちは衣服や装飾品を厳選し、高級な品物を身に着けさせて、高級なサービスを提供しました。
娼婦は特定の客に専念することが許されており、その客から多額の報酬を得ることができました。

娼婦は、黒人やクレオール、白人など、さまざまな人種の娼婦がいましたが、白人女性の娼婦は少数派であり、白人の娼婦は一般的に黒人やクレオールの娼婦よりも高い値段で取引されていました。

一方、娼婦たちは妊娠や性感染症の危険にさらされていました。娼婦たちは定期的に健康診断を受けることが義務付けられていましたが、現実としては効果的な対策ではなかったようです。


ストーリーヴィルの娼館で演奏された音楽は、初期には『ラグタイム』「ブルース」「マーチ」など様々なジャンルが演奏されていました。
1900年代になり「ブルース色」が強くなっていったようです。

そしてニューオーリンズ・ジャズ創造されていきました。

「黒人霊歌」「ブルース」「ジャズ」そして「ヒップホップ」は、それぞれ創造された時代も環境が違っていますが、社会的弱者であるマイノリティが、知恵と工夫によって創造したという共通点があります。

マイノリティの人々は少数派であるために、多様な視点や経験を持ち、従来の思考やアイデアにとらわれず、新しい視点から問題を解決する能力に優れているとされています。
従来の創造性に関する理論や研究が、主に西洋の白人男性に基づいていることに着目していることに対して、マイノリティの人々は、社会的・文化的背景の違いによって、異なる思考やアイデアを持ち得ること実にイノベーティブなのです。


音楽も時代とともにアップデート


1960年代に入ると「ブルース」をベースにした白人主導の「ロック」の来襲によって、「モダン・ジャズ」は、瞬く間に衰退していき、70年代以降、長い間「ロック」が音楽業界の主役の座に居続けましたが、、、

2017年の米国レコード協会(RIAA)のデータによれば「ヒップホップ/R&B」が、「ロック」を抜いて全米で最も多くの音楽ストリームを獲得するジャンルとなりました。
2018年の報告書によれば、「ヒップホップ/R&B」は全米で最も多くの音楽ストリームとダウンロードを獲得するジャンルで、全体の24.5%の売上を占め、これはロックの21.7%を上回っています。

Spotifyの2019年のデータによれば、ヒップホップが同サービスで最もストリーミングされたジャンルであり、世界中で最も人気の高いアーティストの多くが「ヒップホップ/R&B」のアーティストであることが明らかになっています。

2018年のNielsen Musicのレポートによると、ヒップホップは、CD売上全体の21.7%を占め、ロックは20.1%を上回り、音楽業界のトップになったというデータもあります。

2020年代の音楽業界の主役は、間違いなく「ヒップホップ」なのです。





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