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個人情報/プライバシーに関する学説の現在

大学生の頃は、刑法の結果無価値説/行為無価値説 とかとか、学説の対立の意味とかよくわからないで「なんだかんだいって答案政策上(変な言葉だ)書きやすいパターンで処理するのが受験生の現実だよね」というふうに感じていました。

今ふと、個人情報/プライバシーに関係する学説、様々な考え方について触れると「なるほどこれが真理だ! みんなまだ知らないはず! 布教したい!」 と思ったり、「あれ、この人はまだこの説を知らないだけなのかな? 教えてあげなきゃな」なんて使命感を抱いたりしたりします。

そんな中で、先日参加した「プライバシー・バイ・デザイン カンファレンス2023」に参加して思ったことは。

自分がかなり刺さった学説、考え方も、いわゆる一つの考え方で、かなり説得力がある(と僕は感じている)ものの、その考え方を把握しつつも、別の考え方を主張される方も普通にいらっしゃる。

という当たり前の事実を知ることができました。

冒頭で書いた「いろいろな説があるものの、試験の答案に書くにはこういうふうに書くしかないだろ」というのは、ひょっとしたら「とはいえ、サービスや社会に実装するには現実的な落とし所としてはこういうふうに整理するしかないっしょ」というものと近いのかもしれません。

決定的に違うと思うのは
違う考え方がある、ということを知りながら、リスクも把握した上で意思決定をしているか・否か
さらには、様々な考え方に対してアクセスすることができて、コミュニケーションが成立していて、最終的な目指すゴールを同じくしている。

と言ったことかなと思います。

最近よく思うのは、究極は「コミニュケーション」だなと。そしてその潤滑油となる「コミュニティ」の存在かなと思います。

目の前のテキストや文字情報だけでは浮かび上がらない、人格的なものも伴った立体的な思想、そして抽象的なモデルにとどまらない自分自身が現実的なユーザーとして触れている物に対する解像度の高さ、その一方でモデル化して抽象的な概念に昇華する、「具体と抽象」のバランス感。


などでしょうか。

法学に触れて、20年ほどになりそうですが、未だに大学1年の憲法の講義で触れた「通信の秘密」に関するラブレターの例えが忘れられなかったりします。

法学は面白くて、人生が進むほどに伏線回収がすごそうです。

プライバシー・個人情報に関して、自分がいちばん好きだった憲法に関する理解が問われていると、あたかもラストバトルで「めざせポケモンマスター」が流れる様な。そんな感じがしますよね。



めざせプライバシーマスター!

ゲットだぜ!


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