私が死んでこの世に残るもの

お疲れ様です。水田真理です。

不穏なタイトルですが別に遺書ではないです。

生きる意味を考えるときにそれっぽく聞こえる筆頭がこれかなと。でも全然違うよねっていう話。

「他者あるいは世界に影響を残したのだから、私が生きた意味は確かにあるのだ」と言う発想はわからんでもないですが、それは生きた結果であって生きる意味ではないかと。意味を作るために生きるようになってしまえば本末転倒ですし、あるいは生き続けなくてもいい理由にすらなれるのが気に入らないポイントですね。

まぁ、あれば素敵ではあるけれど、オマケ要素として捉えるくらいが良いかなと。

実際の生きる意味が何かはさておいて、
何なら生きる意味足り得るでしょうか?

例えば、そもそも生きる事は幸福である。
例えば、現世は魂を磨く工程である。
例えば、死後に徳を持ち越せる。
ぱっと思いつくのはこのくらい。

どれもこれも現世を生きる我々の知り及ぶ領域の話ではないかなと。故に真実はなく信心止まりだと。

考えても真実にはたどり着きませんが、自分の信じるものについて考えることには価値があると思います。
結論がないことを不安に思う必要はないです。

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