教育困難という問題について

教育困難校というのがあるという。
これは、これまでの「教育」への捉え方からだろうと思う。
月並みだが、「教育」とは、
「教え、教わり、育み合う」
と、いうことだろうから、また、教育困難という問題に直面している事実…そのreasonを加えればよいということになる。これには、以下のようなものがあるのではないか。

  1. 地域性…その地域によって、考え方…物事への理解や考察の仕方…つまり考え方の過程が、確かに違う場合があるという事実を多少考慮…多くは地形によるもの。

  2. 考え方…識者と呼ばれる方々のコメントを見ていると、「生徒に生活の仕方を教える」という文句があった。これはいったい、どういうことだろうか。人本来の発達には、「自発」という要素が欠かせないと思われる。なぜ、こんなことをいいたいか…反発があるからである。それなのに、「教える」とは、どういうことだろうか。自分たちはどうだったのだろう…。手取り足取り教授されたのだろうか。システマチックになってやしないだろうか。工業製品的な考えではないか。人を育てるには、長い時間がかかる。人は製品ではない。しかし、工業生産に要する考え方から、製品を製造するには、まず材料の存在が欠かせない…材料とくれば質、とくる。それには、①遺伝(親からのそれの他に自己からの本質的なアプローチもあると思う)②環境的な要素の二つを挙げられると思う。要は、素質の問題をいいたい。でも、だからといって、差別を押し付けるわけではない。むしろ、温情をもって、接したいほうだ。言いたいのは、どこまでも面倒を見れるかとかということで、見極めが大事ということ。気持ちも資源からだから、ある意味、COST的な問題を適用すれば、解決への道が見えてくる。いわば、通用度の問題だろう。限りはあるのだから、それぞれが、それぞれの範囲で実行すればいい…と、いうことになりはしないだろうか。言いすぎだったら、申し訳ない。

  3. ライフステージの考え方…人生での目的からの解決。これには、専門的な見地からというよりも、人本来の生活…それには…と言うことをいいたい。そのことを考察するには、一言で言うと歴史…だろう。自分の立ち位置、それには…要は、一人じゃない…ということ。ヒントは、個性化の過程…だろうか。文化によって、許容範囲が違くて、相性も…ということが分かる。理解の範囲と、その実践…通用度によって見え方が異なってくる…それを生かすには…勉強ではこういうことだと思う。要は、何を目指すか…立場で異なってくるように思う。そう認識できるまでが大変で、できればそうするという考え…完全にperfectはとても大変…自分だけでは無理…と導き出せる。でも、このことから、できれば一人で…ということになりはしないだろうか…他を頼ると、その分、気苦労が多いからだ…トラブルも多い。しかし、一人ではいられない…。ここで、ある意味開き直りで、「今、自分にできること…」で行動を起こすという考えを助け船にしたい。人間、できることには限りがあるのだ…と。理想と現実間の認識の違いはどうして起こるのだろうか。結論、人それぞれ…。

冷たいと思うか、意見は賛美両論だろうが、それを包括するのは人…考えだから、生活を守ればよいという考え方でよいのではといいたい。人柄も重要なfactorではないか。

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