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尾崎豊に出会った、耳が聞こえない私の「15の夜」

小学部にあがったばかりの頃だったか、先生が、童謡をスピーカーから流してどんな歌かを当てさせる問題を出してきた。級友たちと一緒にスピーカーの前に立ち、手をあてた。級友が答えるのをみて、なんでわかるんだろう?と不思議だった。私はいつも答えられなかった。

今思えば、聾学校には、聴力障害の程度が軽い子どももいたのだろう。しかし人によって聴力障害の程度に差があるなんて、当時は思いもしなかった。「ともだち」はみな「耳がきこえない」と思っていた。
この世界には、聞こえないか聞こえるかの2つしかないと思っていた。

中学部にいたころ、1人の少女が見学にきた。年のころは同じくらいだったか。一般の中学校に通っていて、聾学校を見学にきたのだという。案内をしていた先生が私をみかけ、近寄ってきて「耳が少し聞こえないんだって」とその少女を私に紹介してきた。私は「こんにちは」と挨拶した。少女も私に何か挨拶を返してきたと思うが、全く何を言っているか分からなかった。その少女と先生は「普通に」話をしていた。「聞こえないってどういうこと?」と不思議だった。

少女が帰ったあと、先生と話をした。「あの子は、聾学校に転校しようかと考えたらしいんだけど、あの子はけっこう聞こえるから聾学校は合わないと思うんだけどね…」と話してくれた。その後、お願いをされた。――あの子と文通をしてくれないか、と。

私から手紙を出し、文通が始まった。

朝から晩まで聞こえる人に囲まれて過ごしていた彼女。それに引き換え、聾学校で過ごし、放課後の習い事ぐらいでしか「聞こえる人」と接していなかった私。そして、私よりは聞こえていて発音も比較的明瞭だったろう彼女。まったく聞こえない私。習い事のときを思い出して「聞こえないことを周りから色々言われているような気がして不安」と返事を書いた。それが彼女の心に響いたらしく、「私も同じ!!嬉しい!文通をこれからも続けたい」と喜びを表してきた。

彼女は尾崎豊に心酔していた。私はそれまで尾崎豊を知らなかった。尾崎豊はもう亡くなっていた。尾崎豊のライブ映像をビデオテープで送ってきた。一応再生してみたが、当然全く分からなかった。
尾崎豊も、彼女の大変さ辛さも、ついに理解できないまま、私は15歳になった。「15の夜」を過ぎて、文通はしだいに途絶えた。

聾学校を卒業し、(医学的に聴力障害の程度が軽い)知人友人が何人かできた今なら、いくつものの出会いを重ねた今なら、彼女の苦しみが分かるような気がする。

聞こえているはず分かっているはずと周囲から思われる辛さ。音楽で音程が微妙にずれてしまう恥ずかしさ。電話が苦手。聞き取れなかったときに、何?と聞き返せない辛さ。

閉塞感に覆われた世界で、窮屈で、孤独で。誰もわかってくれないと感じる寂しさ。そんな彼女にしっくりきたのが尾崎豊の曲だったのだろう。

尾崎豊が亡くなって30年ほどがたつが、時々、尾崎豊のニュースが流れることがある。そのたびに、中学生のときにただ1回だけ会った子のことを思い出すのである。彼女は「I love you」が好きだと言っていた。

元気にしてますか?私はあのあと、手話を覚えました。

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