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耳が聴こえない自分を「耳が悪い」と形容してしまった後味の悪さ。手話を知らなかった自分の生存戦略だった。

一般高校にただ1人、耳が聴こえない生徒が紛れ込んだ「異邦人」としての高校生活も、1年ほどすぎたころ、なんとかコミュニケーションをとれる相手が2,3人できるようになった。私に分かるよう、ゆっくり話してくれる人ができた。また私の話を、何度も聞き返し私の独特の声に慣れてくれる人がでてきた。少しながら休み時間や放課後を、人とのつながりで彩ることができるようになった。

でも、私は、その会話を成り立たせているのは、お互いの共通認識や、文脈、私の発音の出来不出来で会話が成り立つ、非常に危うい綱渡りのようなものだと分かっていた。時折、露わになる会話の行き違いは、お互いに儀礼的無関心をもってやり過ごした。

元々私は、高校入学前から、自分が特に苦手とする発音は何かを把握していた。異邦人としての航海を生き残るために、私は以下のような戦略を立てた。
自分が話す前に、話す内容を事前に脳内で確認した。苦手な発音がある単語は、同じ意味のもので、自分が比較的発音できる単語で言い換えることにした。
苗字も下の名前も、私が苦手な発音から始まる名前の子には、まだ通じやすい発音からなるあだ名をつけた。
挨拶も、私がいるグループだけの符丁的なものに変えた。それらはすべて、私が比較的発音しやすい音で構成されていた。
これは私がたった1人でひねり出した「生存戦略」だった。もちろん、高校入学前までを過ごした聾学校では必要のないものだった。

私がいたグループの子たちは、あだ名も、符丁的な挨拶も、私の個性的なキャラクターのたまものだと思って、むしろ、楽しんでくれたと思う。私の生存戦略とは思いもしなかったろう。

自分のことは「耳が悪い」と言っていた。
ただし本当は、自身は「耳が悪い」ではなく「耳が聴こえない」と言いたかった。生まれつき耳が聴こえない私には「耳が悪い」より「耳が聴こえない」方がしっくりきたからだ。また「耳が悪い」ほど、自分は聴こえているわけでもなかった。自分なりに、「耳が聴こえない」と「耳が悪い」の使い分けの基準をもっていた。

私がなぜ「耳が聴こえない」を使わなかったか。
それも「生存戦略」の1つだった。「キコエナイ」は私が最も苦手とするカ行の音が2つも入っているのだ。それにひきかえ、「ワルイ」はまだ発音できるほうの音なのだ。どちらでも相手にとっては同じことだ、意味が伝わればいいと思い、「耳が悪い」で代用してしまった。
自身の聴覚障害をどういうふうに受け止めているか、自分なりの使い分けルールはどのようなものかを相手に開陳できるほど、私たちのコミュニケーションは確固たるものではなかった。相手と自分をつなぐ回路の脆弱さに、私は「耳が悪い」という一言で済ませてしまった。

短大進学後、郷里に帰省した折、高校の同級生と会う機会があった。
高校時代を振り返りながらその級友は、懐かし気に、私の様子についてこんなことを言った。
「自分は耳悪い、って言ってたけど、すごく元気だったよね」などと語った。

不意打ちのパンチをくらった気分だった。
戦略とはいえ、消極的に使ってきた「耳が悪い」とこんなところで再会するとは思わなかったからだ。

高校卒業後進学した短大では、同世代の耳が聴こえない仲間たちと出会い、語り合った。おそらく、最初の1か月で高校3年間の総会話量を凌駕しただろう。そして、自分は「耳が聴こえない」人間であり、「目で見る世界」を生きる人間だという自意識を強めつつあった。それとともに、「耳が悪い」という言葉は、脳裏にも上らないほどに、遠くなっていった言葉だった。
そこへ、「耳が悪い」と自分を語っていたことを持ち出され、一気に、高校時代の授業やコミュニケーションなどの記憶がないまぜになってよみがえった。まだ、高校時代のことは生々しすぎて、思い出すたびに古傷がぱっくりと開き、血が流れだす感覚だった。

「耳が悪い」は、自分の高校時代を象徴する言葉だ。
自分の生存戦略を、自分のキャラ設定と位置付けなければやっていけなかった。
戦略を優先して、自分が大事にしたい違いをおざなりにしてしまった。
しかし、手話を知らない自分が取りうる戦略としては、あれしか選択肢がなく、かつ、最良の戦略だったとも思った。

その日の再会では、自分が思う「耳が悪い」と「耳が聴こえない」の違いについて話すことはなく、あたりさわりのない話を、大人と子どものキャッチボールのように交わして、別れた。

家への帰り道を歩きながら、私は、後味の悪さをかみしめていた。まだ私は血を流し続けていた。
自分は二度と「耳が悪い」と自己紹介はしないと、決めた。
20歳の夏のことだった。

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