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聾学校にいた、同じ聾の大人たち。同じ身体性を背負っていながら、私たちは交わらなかった。

聾学校での給食を作る調理員は4人いた。女性3人、男性1人。この男性は耳が聴こえない人で、名前をAさんといった。他女性3人は耳が聴こえた。

私はどこかでAさんが、私と同じ耳が聴こえないことを知っていた。年に1度、進級式か何かの場で、調理員4人が体育館で並んでいたのを見た。学校職員の紹介の場だったのかもしれない。だがその紹介をする声は私には聞こえていなかった。他の子どもたちにも。そして、きっとAさん本人にも。そこに手話はまったくなかったからだ。聾学校では手話は使うべきものではなかった。

同じ耳が聴こえないという身体性を背負っていながら、Aさんと私たち聾学校の児童生徒には、ほぼ接点がなかった。年に1度、体育館で離れたところからAさんの顔を見るだけで、個別に会話をすることは全くなかった。毎日、Aさんの調理した給食を食べていたというのに。

小学部3、4年のときだったか、学校フェンスそばを下校で歩いていたときに、1人の男性が向こうからやってきた。その「おじさん」は、手を振り、私にガムをくれた。私はそのおじさんを、耳が聴こえる人だと反射的に思った。当時私が接する大人は、みんな耳が聴こえる人だったからだろう。
私は、知らない人からお菓子をもらってはいけないという倫理感から、そのガムを辞退しようとした。それでも、大丈夫だよ、もらっていいんだよ、とそのおじさんは重ねて言った。そのときになって、初めて、私はその人の顔をまじまじと見つめた。この人をどこかで見たことがあると気づいた。
調理員のAさん?と思ったが確証は持てなかった。

そこでの私はひたすら緊張していたが、おじさんはずっとにこにこ笑っていた。私もおじさんも手話をしなかった。しなかったというより、ガムをあげる、という些末な事柄で身振り程度で完結してしまった、のかもしれない。あるいは、おじさんがAさんだとしたら、私に手話をするのを「自粛」していたのかもしれない。手話は忌避すべきものだったからだ。

もらったガムは、駄菓子屋にあるようなガムではなく、薄い板状の長方形をしたガムだった。大人のガムだと思った。私はその男性が「知らない人」なのか「Aさん」なのか確証が持てないまま、私はガムをポケットに入れ歩いて帰った。歩きながらお菓子を食べるのはみっともないと思ったからだ。しかし、帰宅する前に、やはりガムを食べてしまおうと思い、ガムをポケットから取り出して口に入れた。親には、ガムのことを説明しきれないと思った。そのガムは風船ガムのようには伸びず、やはり大人のガムだなと思った。
その後、何かの折に、ガムをくれたおじさんは、Aさんだったのだなと確信した。

そのときAさんは50歳はすぎていたのではないか。とすると今はかなりのお年だろう。とうに鬼籍に入ってしまわれたかもしれない。

Aさんは、私が聾学校にいる間はずっといたのではないかと思う。Aさんは、ずっと、聾学校の子どもたちのために給食を作り続けたことになる。
聾学校にいながら、聾の子供たちと接する機会はほぼなく、会っても、手話で会話することはない子供たちのために。

私は同級生の聴こえない親を除いて、働いている聾の大人と会話することはなかった。まして手話で会話することなど。
聾の大人たちと関わることの意味を、聴こえる大人たちはもちろん、私たち子ども自身も十分に理解していなかった。

私が聾学校にいた約15年の間、Aさんと私が会話らしい会話をしたのは、そのガムのときだけだ。
同じ空間にいながら、断絶が存在していた。
私たちは聾学校の「失われた世代」であった。

Aさんはどんなふうに手話をする人だったのだろう。
あの節くれだった指からは、どんなふうに話が紡ぎ出されたのだろう。
どんな思いで、3人の聴者同僚と一緒に働いていたのだろう。
どんな思いで、体育館にいた私たちを見つめていたのだろう。

私はAさんのことを何も知らない。どこで生まれたのか、何歳なのか、家族はいるのか、いつから聾学校で働いているのかも、全く。

私が知っているのは、Aさんの笑いじわだけだ。

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