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高校生のときクラスメイトから「善意」の手紙をもらった。その手紙で私は社会を「予習」した。

聾学校では、整列はいつも背の順番だった。
背が低かった私は、聾学校時代はずっと、整列で一番前の位置を守った。
幼稚部から中学部までずっと。そのため「前へならえ」で両腕を伸ばす二番目以降の位置に憧れていた。

一般高校に入って、自分よりほんの少しだけ背の低い生徒と同じクラスになった。背の順に並ぶと自分は2番目になった。私は初めて「前へならえ」で両腕を伸ばせてとても嬉しかった。

休み時間など、私は一番前の子と時々過ごすようになった。過ごすといっても、私が「入れてもらった」グループの一員としてただ近くにいる、という感じであった。

私は繰り返し、自分のほうが背が高い、嬉しいと身振りを交えてその子に伝えた。その子の口は、私には読み取りにくかった。私の声が通じていたかどうかは分からない。
そのため、私から話しかけることとして、お互いの共通認識があり、「私の方が背が高い」という身振りでも伝えられる内容ばかりになってしまったのだろう。

その子はある時、やめて、と不快感を表してきた。私は驚き、反省し、同時に、残念な思いを抱いた。話す格好のネタを失った、と思ったからだ。そのネタ以外に、何を話せばいいのか分からず、話したいことも特になかった。その後も、その学年が終わるまで、それまでと同じように一緒に過ごした。私は相も変わらず、微笑みのデスマスクを顔に貼り付けながら。

しばらくして私は、その子から手紙を受け取った。高校では手紙のやりとりをしあう女子生徒が多かった。ノートの切れ端や小さいメモ用紙を折りたたんで、授業中あるいは休み時間に渡し合うことをやっていた。
そういう文化のなかで、受け取った手紙は、以下のような内容であった。

幼稚園のとき同じ組に、ダウン症の子がいた。
だから私は慣れている。大丈夫だよ。

私は手紙を読み終えた。
その手紙は、「善意」にあふれていた。その子はまったくの好意で書いたのだ。だが、私は違和感を感じた。手紙から立ち上る「善意」を受け止められずにいた。

高校入学前までをずっと聾学校で過ごした私は、自身が障害者だと分かっていたつもりだった。そこには、悲壮感は全くなく、ドライな受け止め方であった。否、私は分かっていなかった。
それは、自分自身をどう受け止めているかが曖昧ということでもあった。自分はあいまいな境界を漂っていた。「聴覚障害者」でもなく、「ろう者」でも「難聴者」でもなく、「聴者」でもなく。

また、私はきっとダウン症の人たちを格下に見ていたのだ。彼らと私たち聴覚障害者は違う、と。だから、彼女から、ダウン症と同じとみなされて、ショックを受けたのだ。ダウン症のことを、当時自分はほとんど何もわかっていなかったというのに。

こんなことも考えた。

この世には、程度も種別もさまざまな障害者がいる。しかし、その人がどんなふうに生活をしているのか、どんな考えをもっているのか、という個々の違いを無視するほど、「障害者」として一括りにしててしまう人がいるのだと。庇護すべき対象としては同じなのだ。分断でも連帯でもなく。
それは、きっと社会の中で「当たり前」の考えなのだろうと思った。

微笑みの仮面をはりつけ、身振りでも伝えられるほどの中身のないことを繰り返し言う「困ったちゃん」だった私。彼女は、背が低い低いと繰り返し言われて閉口していたのだろう。だが、これは仕方のないことだと、私が「障害者」だからと「許す」気持ちで、あの手紙をくれたのかもしれない。

そして、あの手紙は、私たちのコミュニケーションの薄さをも突き付けた。私たちは、表層的なコミュニケーションに終始して、何も関係を築けていなかった。何も分かり合えていなかった。当たり前だ。

もしも、あの時、手話がわかっていたら。

コミュニケーションの可能性に自信をもてるようになっただろう。
とはいえ、それは結局、死んだ赤子の齢を数えるのと変わらない。

私は受け取った手紙のことを誰にも話さずに、胸の奥にしまいこんだ。
そして、時折取り出しては、咀嚼した。
当初の違和感は、じわじわと時間をかけて、さまざまな感情を生み出した。

あの数行の手紙で、気づいたことがたくさんあった。
自分の抱えていた内なる世界のことも、これから自分を待ち受けているであろう世界のことも。
その手紙は、まさに、社会のエッセンスであった。

今でも時々思い出す。なんとも言えない苦さとともに。

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