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「障害を乗り越えて」なんかいなかった。乗り越えたいとも乗り越えようとも思っていなかったが、みんな私を、おいてけぼりにしていった。

私が聾学校中学部から地域の一般高校に入学したのは、当時珍しいことだった。何しろ、新聞に載ったのだから。いまから20数年前の話である。

聾学校に新聞記者がきて校長室で取材を受けた。同席したのは、担任の先生と校長先生。

校長室のソファに初めて座った。初めての座り心地を堪能する間もなく、取材が始まった。記者が私に何かを言った。口は見ていたが、読み取れずまったく分からなかった。そっと周りを見回したが誰も私に教えてくれる雰囲気はなかった。質問の内容を予想し、回答しはじめた。すると隣に座っていた担任の先生がすぐさま私の腕をつついて「違うだろ」と言った。私は記者の質問を取り違えていたらしい。とりあえず口元に笑みをうかべてみた。質問内容を改めて教えてもらい、回答した。その後は、主に担任の先生と記者が話をしていた。何を話しているのかは全く分からなかったがとりあえず聞いているふりをしていた。

その後、掲載された新聞記事を読んだ。記事の文章は忘れてしまったが、覚えている限りでは、こんなことが書いてあった。

――… はにかみながら話した。(略)ー〇〇先生は太鼓判を押す。―

おそらくその記者は、私の様子を見て、「この子は大丈夫なのか。」と思っただろう。それを「はにかみながら」と形容するとは。さすが新聞記者だな、新聞記事はこういうふうに言葉を選ぶのか、なるほど、と思ったことを覚えている。
そして担任へのインタビューは、当然私にはわかっていなかった。新聞記事を読んで、ようやく遅まきながら知った。

そして高校に入って最初の夏休みが終わり、迎えた秋。市内の某団体から表彰されることになった。
受賞の理由は端的にいうと「耳が不自由なのに、聾学校じゃない高校に入って頑張っている」ことである。

表彰されると聞いたとき私は嬉しかった。表彰自体よりも、それをきっかけに、何か高校生活がいい方向へ変わるのではないかと淡い期待を抱いたからである。
高校入学から半年経っても、私には、挨拶とノートを写させてほしいとのお願い以外の会話をする相手がいなかった。学校と家を往復するだけの日々。そんな日常に彩りが生まれるのではないか。例えば、級友や先生たちとの会話のきっかけができるのではないか。
しかし、全く変わらなかった。

新聞掲載も、表彰も、何を書かれたのか言われたのか今となっては覚えていないが、枕詞はおそらく「障害を乗り越えて」。偉いねすごいねと褒められはしたけれど、みんな私を通り過ぎていく。
私は、障害を乗り越えたいとも、乗り越えようとも、全く思っていなかった。私にとって、耳が聞こえないことは、目の前に立ちはだかる壁ではなく、背中に生まれつき持っている青あざのようなものだった。

昨日をコピーした今日。きっと明日も今日をコピーした一日。一日を7回コピーしたら一週間。
一日がとても長く、それでいて、季節のめぐりは漫然として迎えた。
桜はいつの間にか散っていた。

刑務所で過ごすのはこんな気持ちなのかもしれない。切り取られた空の世界。壁で囲まれた世界。
とても小さな世界に私はいた。

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