見出し画像

過ぎ去りし幸せな聾学校時代。私は夢から覚めて大人になった。

聾学校に、時々Yさんがきていた。Yさんは、補聴器メーカーの男性社員で、子どもたちのイヤーモールド作製をしたり、補聴器調整をしたりしてくれた。

私はYさんが大好きで、Yさんが廊下を歩いてくるのが見えるなり、Yさん!Yさん!と走り寄っていった。大好きだったのは私だけではない、聾学校子どもたちはみんなYさんのことが大好きだったと思う。聾学校廊下を歩いてやってくるYさんが輝いて見えたこともある。

イヤーモールドとは、補聴器につながっている耳穴の形をしたもので、補聴器本体に伝わった音声をイヤーモールドを通じて鼓膜に届ける。イヤーモールドがぴったり耳穴に合っているほど聞き取りやすいため、人それぞれの耳穴に合わせてオーダーメードで作られる。そのイヤーモールドの型を取ってもらう作業が、聾学校の子どもたちはみんな大好きだった。Yさんは、廊下あるいは教室の床にジェラルミンケースみたいな銀色の四角いケースを置く。膝を立てて、ケースの蓋をあけ、綿をちぎって親指と人差し指で手早く丸める。その粒状の綿をイヤーモールドを作る子どもの耳穴にピンセットでそっと差し入れる。いつしかこの綿は、15センチほどの糸がついた5ミリ程度のスポンジに代わった。

次に、2つの円柱形ケースを取り出す。2つの円柱形ケースはどちらも高さにして10センチ以上あった。色は茶色かったか。蓋の大きさは、Yさんの手のひらに少し余るくらいあった。ケースの中身は、どちらもペースト状のもので、1つは黄色かった。もう1つは、どんな色をしていたか思い出せない。その2つのケースの蓋をあけて、へらでそれぞれ少しずつ掬って手に乗せていく。2種類のクリームがのった手を何度か握って、指でも返して手早く混ぜていく。混ぜられた2種類のペーストはあっという間に紫色になった。

それから、その紫色クリームを、10センチほどの注射器外筒に押し込む。筒先に針はついてない。筒先を耳穴に入れ、注射器押し子を押し出していく。そして指でぽんぽん押す。そのクリームはほどなくして固まる。しばらくして、その耳穴に入った粘土を指先で少し揺らして、ひねって取り出す。これがイヤーモールドの型になるのである。この型をもとに、イヤーモールドが作製される。

綿を詰めるピンセットの細さは、何度見てもドキドキしたし、粘土の色が変わっていくのも不思議で面白かった。また耳穴に入ってくる粘土はひんやりしていてそれを肌で感じるのは楽しかった。イヤーモールド型取り時には、いつも数人の子どもたちがYさんを取り囲み、一連の作業を見守っていた。作られる方の子どもを、ほかの子どもたちは羨望の眼差しで見つめた。

使い終わった注射器の中には少し紫色の粘土が固まったのが残る。それをくれるときもあった。弾力があって、表面はちょっと油っぽい感じでつるつるしていた。

子どもは成長とともに耳も大きくなる。補聴器のイヤーモールドが小さくなり耳穴に合わなくなると空気が漏れて、ピーピーとハウリングが起きる。そのたびにイヤーモールドを作り直す。「早く耳が大きくならないかな、そうしたらYさんにイヤーモールドをまた作ってもらえるのに」と思っていたくらいだ。

私たちがYさんが大好きだったのは、その作業を見守るのが楽しかったからだけではない。はっきり口をあけて目を合わせて話してくれる大人。元気かい?と聞いてくれる大人。親でもなく、先生でもなく。

私が聾学校にいる間は、ずっとYさんがきてくれていた。物心ついたときから中学卒業までずっとYさんだった。中学部の時は、あまり会わなかったかもしれない。いつ会っても、Yさんはずっと変わらなかった。

聾学校を卒業した後、母に連れられて一度、補聴器メーカーの店に行ったことがある。そこにはYさんがいた。私は、聾学校にいたときと同じように、Yさんに話しかけられなかった。自身の発音が不明瞭で分かりにくいということを痛感していた。私はもう屈託なく笑えなくなっていた。息継ぎの方法すら、わからなくなってしまっていた。

Yさんは、前より老けて見えたし、輝いてはいなかった。記憶のなかのYさんと違いすぎて、一瞬戸惑った。子どもの頃は、あんなに大好きだったのに。Yさんをとても遠くに感じた。輝いていて、いつもニコニコしていて、不思議な魔法を使うYさんはもう居なかった。

聾学校を卒業し、高校生となり、私は無邪気な子ども時代を終えつつあった。その分Yさんも年を重ねていくのは当たり前なのだ。それにずっと気が付かなかった。

安心して笑って過ごせる場所から、自分はもう抜けてしまったんだと分かった。もはや戻れないほど、遠くに。

そうして私は夢から覚めて、大人になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?