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私たちは先生に教わりながら、教えた。聞こえない子ども向けの分かりやすい話し方を。

聾学校中学部3年のときに、新任の先生が来た。Y先生といい、3月に大学を卒業したばかりだという。入学式進級式で、Y先生の最初の挨拶をみて、私は「これは厳しいぞ」と暗澹たる気持ちになった。クラスメイトも同じ気持ちだったろう。

口の動きが小さく、かつ、もごもごとしていて、読みづらいのだ。
これは授業が成立しない。話し方について鍛えなければなるまいと、私は危機感を抱いた。

聾学校の先生は、みなはきはきとした話し方をし、口が読みやすい。かといってゆっくりすぎるわけではない。文節ごとに区切って話す。
手話が禁止されていた時代のことである。手話なしで、口だけで読みやすいかどうかは、子どもにとって、おそらく先生にとっても、大事な問題であった。

これまで私たちは新任の先生にあたることがないわけではなかったが、みなすぐに聾児に伝わりやすい話し方を習得してくれた。先生のほうも、聾の声に慣れ聞き取れるようになってくると、おしゃべりができるようになる。

Y先生による社会の授業が始まった。
始まってすぐに、私は手をふって、先生の発言を止めた。何を言っているか全くわからない。授業として成立しない。

「違う!ゆっくり話して!」
するとY先生は、ゆっくり話し始めたが、今度は一字ずつ切って話してきた。それは、よけい分かりづらい。

「違う!文節ごとに区切る!」
わたしはたまらず前に出て、黒板に、文節ごとに区切るという説明を板書した。
「お/は/よ/う/ご/ざ/い/ま/す じゃなくて おはよう/ございます/ !」

私たちはたびたび授業を止め、その都度、聾児向けの話し方についてレクチャーした。授業が行われないのはもったいなかったが、必要な作業であった。初夏を迎え、文節ごとに区切って話すルールはなんとか見に付けてもらえた。
しかし、まだY先生の話し方はわかりにくく、私たちの声も伝わりにくいままだった。他の新任の先生はもう既にわかりやすい話し方を覚え、聾の声に慣れてくれ、授業中脱線もできるようになっていたのだが。そのため、Y先生とおしゃべりする子はいなかった。

Y先生の苦肉の策か、代わりに板書が増えた。板書をする間は黒板に頭を向けるので、私たち生徒からは当然先生の口は見えない。板書中何か話していたとしても、板書の間は授業は「なかった」。

板書を熱心にする先生の後ろで、私たちは私語に興じた。
消しゴムを定規で細かく刻んでは、後ろから先生めがけて消しゴムカスを投げつけた。
私たちは、教室ドアに黒板消しをはさんで、Y先生がドアをあけてくるのを楽しみに待つこともあった。うまい具合に、Y先生の頭上に黒板消しが落ちたときはクラスメイト一同、快哉を叫んだものである。

「話せない」先生は、「みそっかす」扱いであった。

しかし私はどこかで、相反する気持ちを抱いていた。
ちょうど塾に通い始めた頃であり、塾の先生が何を言っているのかわからなかった。今更ながら、世間一般の聴者と聾学校先生が違うことを、塾に通うたびに痛感していたからである。

Y先生の口が分かりにくいことをクラスメイトと愚痴りあいながら、消しゴムカスを後ろから先生めがけて投げつけながら、その一方で、1年後の自分はこんなことはできないのだろうなとも思っていた。聾学校の基準に照らせば、Y先生はいい先生とはいえないが、世間一般の基準だと「努力してくれるいい先生」なのだろうと思った。

そうして、Y先生は私の卒業と同時に、学校を退職した。最後まで、口が読みにくいままだった。また私たちの聾声も聞き取り慣れていないままだった。

春休みに家にお呼ばれして、カレーをごちそうになった。カレーを食べ終えた後は、話はあまりはずまなかった。それきり会っていない。共に過ごしたのは1年間だけである。10年ほど年賀状だけのやりとりが続き、年賀状は途絶えた。

少なくとも年賀状からは、教職にまたついた様子はなかった。ここ10年間の状況は分からないが、教職についたのは私の聾学校の1年間きりかもしれない。とすると聾学校にはもう行っていないだろう。聾の子どもたちとも会っていないだろう。

Y先生は、15歳の私に色んな本を紹介してくれた。
おそらく、聾学校のなかでY先生との距離が一番近かったのは私である。

この30数年で、聾学校や手話、聴覚障害者をとりまく状況は大きく変わった。この私自身も。

Y先生にとって、私は「不明瞭だけれど、声を頑張って出して話す、本が大好きな少女」。

Y先生が頭の中で思い浮かべる私とは、ひょっとしたら、30数年経った今も、手話をせず声だけで話す女性のまま、だろうか。

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