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子どものとき、縁日の「見世物小屋」で生まれて初めて「障害者」と出会った。そこで私は、見世物にもなれず「働けない」自分を見た。

小学部のとき、妹と私の友達何人かで、縁日に行った。
私たちはみな聞こえない子どもだった。はっきりあけた口と不明瞭な発音で私たちはあれやこれや話しながら、人混みのなかを、連れ立ってぶらぶら歩いた。チョコバナナ、焼きそば、焼きイカ、様々な屋台が並んでいた。それを見ながら歩くのはとても楽しかった。

金魚すくいをして、何かを食べて、ぶらついたところ、大きなテントが目に入った。テントの上には、サイケデリックな大きな看板があった。そこに蛇女が描かれていたことだけは覚えている。
あまりよく覚えていないのだが、呼び込みを小人症の人がやっていたのかもしれない。子どもなのか大人なのか分からない風体に、驚きながらも目が離せなかった。

今では全く見かけることのなくなった「見世物小屋」であった。ときは平成になるかならないかであった。
入場料は500円だったと思う。
私のお小遣いはギリギリだった。入場料500円は焼きそばや金魚すくいより高いのである。私はそこに500円出すか出さないか悩んだ。
しかし、どうしても中を見てみたいという気持ちを抑えきれず、友達か妹かを誘って中に入った。

のれんを二重にめくって入った。入ると、横に一本5メートルかそのくらいの通路があり、その通路に横に面する形で小さな舞台があった。そこには3人くらいの人が座っていた。うち1人の女性は、鼻穴のなかに小さい蛇をツツツと差し入れていった。するとその女性の口の中から蛇の頭がでてきた。しばらく、蛇の頭と尻尾をそれぞれ両手でつまむようにしてもち、するすると交互に引っ張って見せた。鼻と口の穴が蛇でつながっていることがよく分かった。
「蛇女」のほかにも、一通り芸を見た。手足欠損の人もいたような気がするのだが、よく覚えていない。

私は金魚すくいの小さな袋を左手に持っていたのだが、驚いたのだろう、うっかり手を放してしまい、落としてしまった。私は落としてしまったことにしばらくは気が付かなかった。白い肌に真っ赤な口紅をした赤い着物の女がそばにやってきて私の足元にしゃがんだ。そのとき、初めて私は金魚すくいの袋を落としてしまっていたことに気が付いた。その女はてきぱきと、床でぱくぱくと口を開けている金魚をつまみ、わずかに水が残った袋に入れて、私に渡してくれた。私は、ありがとうとも何も言えず、ただぶんぶんと首を縦にふった。その女の人は優しく微笑んだ。妖艶な美しさであった。

出し物はあっという間に終わった。私は金魚すくいの袋をしっかり握りしめ、通路を抜けて、まぶしい外へ出た。
見世物小屋のなかで私たちは会話をしなかった。あまりにも驚きすぎて会話をする余裕さえなかった、というのが実情だった。

「見世物小屋」のスタッフたちは、私たちが両耳につけていた補聴器からも「つんぼ」であることをすぐに見抜いたのだろう。だからあんなに優しく微笑んでくれたのかもしれない。

子どもの頃私は、自分たち聴覚障害者は別にして、盲人以外の障害者を本当に見ることがなかった。体育のプール授業は盲学校のプールを借りていたので、盲学校内で盲人は時々見かけたからだ。
見世物小屋の「障害者」は、生まれて初めて見る「障害者」であった。自身も「障害者」でありながら、初めてみる障害者の姿にたじろいでいた。
その縁日が終わってからもしばらく数日間は、あの「見世物小屋」の衝撃を引きずっていた。あれが「障害者」なのだと私は思った。自分自身や聾学校にいる子供たちは、「障害者」らしい体つきをしていなかった。

その縁日の前か後かは覚えていないが、そのころ、四肢欠損で見世物小屋で働いていた日本人女性のことをテレビで見た。口のなかで糸の玉結びをし、着物を口で縫い上げる技術をもった女性だった。また、下半身がなくスケボーにのって移動するアメリカ人少年ケニーのこともテレビで見た。
字幕はなかった。字幕がなくとも、そのすごさは見て分かった。

見世物小屋のことを思い出した。
彼らの「見た目」はインパクトがあった。
それに引き換え、なんと私たち「つんぼ」はつまらない存在か。

私には、自身を見世物にできるだけの、お金をもらうための、生きるための「芸」がない。
私は、見世物小屋でさえ、働けないと思った。

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