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聾学校時代

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幼稚部から中学部まで13年以上通った聾学校時代のNoteをまとめています。 ※マガジン分類は今後変わることがあります
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2021年2月の記事一覧

私たち聞こえない子どもだけでなく、聞こえる大人たちもまた、分かったふりをすることがあるのだと気づいた。それは、発音の悪い子への気遣いなのだろうと思った。

聾学校小学部3年か4年のとき、隣の小学校の学芸会を見学しにいった。 引率のS先生と一緒に、薄暗い体育館のなかへ足音を忍ばせて入った。体育館は、聾学校の何倍ものの広さだった。遠くにみえる体育館ステージの舞台では、器楽の演奏をしているところだった。私たちはS先生と一緒に、舞台から離れたところの床にそっと座った。私は文字通り器楽の演奏を「見ていた」。数分ほどは見ていただろうか。私は少し飽きてきた。舞台以外の体育館の設備を見回したり、演奏に聞き入るS先生の横顔を見つめたりした。あちこ

聾学校保護者のコラムで構成された文集を私は読んだ。手話がタブーだった時代の聾学校で、聴こえる親、難聴の親、聾の親がコラムを寄せた。

聾学校には、保護者で作る文集があり、年度末の3月に刊行されていた。表紙の色は毎年変わった。大きさはA4サイズくらいだった。 保護者たちは、自身の子どもの微笑ましいエピソードや親自身の気づきなどをコラムに書いた。それは、学校で共に過ごす「ともだち」は家でどんなふうかという意外な一面をかいま見られる、という点で、私は読むのが楽しかった。母親の手によるものがほとんどだったが、父親によって書かれたものもあった。 私の親は、聴こえない妹も含めて、15年以上は聾学校との関わりをもった。

子どものとき、縁日の「見世物小屋」で生まれて初めて「障害者」と出会った。そこで私は、見世物にもなれず「働けない」自分を見た。

小学部のとき、妹と私の友達何人かで、縁日に行った。 私たちはみな聞こえない子どもだった。はっきりあけた口と不明瞭な発音で私たちはあれやこれや話しながら、人混みのなかを、連れ立ってぶらぶら歩いた。チョコバナナ、焼きそば、焼きイカ、様々な屋台が並んでいた。それを見ながら歩くのはとても楽しかった。 金魚すくいをして、何かを食べて、ぶらついたところ、大きなテントが目に入った。テントの上には、サイケデリックな大きな看板があった。そこに蛇女が描かれていたことだけは覚えている。 あまりよ

それは「友情」か「憐憫」か。聴こえる「友達」とのつながりの意味を、私は高校時代ずっと考えていた。

聾学校同級生とは、1,2歳の、おむつもとれていない頃からの乳幼児相談のときからずっと一緒に過ごしてきた。物心ついたときから、隣にいて、毎日学校で一緒に過ごしてきた仲だ。私には彼らが「ともだち」であった。 「ともだち」のそのお父さんもお母さんも、兄弟姉妹も、全部ひっくるめて、私は知っていた。家族ぐるみで旅行やキャンプ、登山もした。隣の家のおばさんよりずっと濃い間柄であった。 私の母にとっても、周りのお母さんたちは、単なるママ友ではなく、同じく聴こえない子どもを育てる同志、戦友で