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私たち聞こえない子どもだけでなく、聞こえる大人たちもまた、分かったふりをすることがあるのだと気づいた。それは、発音の悪い子への気遣いなのだろうと思った。

聾学校小学部3年か4年のとき、隣の小学校の学芸会を見学しにいった。
引率のS先生と一緒に、薄暗い体育館のなかへ足音を忍ばせて入った。体育館は、聾学校の何倍ものの広さだった。遠くにみえる体育館ステージの舞台では、器楽の演奏をしているところだった。私たちはS先生と一緒に、舞台から離れたところの床にそっと座った。私は文字通り器楽の演奏を「見ていた」。数分ほどは見ていただろうか。私は少し飽きてきた。舞台以外の体育館の設備を見回したり、演奏に聞き入るS先生の横顔を見つめたりした。あちこちに視線を走らせていると、舞台の端っこで何か演奏をしている女の子が目に入った。小1,2年生ぐらいだったろうか。その子は眼鏡をかけていた。

眼鏡をかけている子は今ほど多くなかった。聾学校でも眼鏡をかけている子はほとんどいなかった。
それは、私にとって「目新しい」ことだった。「すごいこと」とも感じた。
隣にいたS先生に伝えて共有したいと思った。舞台に目をやっているS先生の腕をゆさぶって呼び、まだ小さいのにもう眼鏡をかけている子があそこにいるよ!すごいよ!と私は伝えた。声の大きさを調整すべき場面である、とはわかっていたので、私なりに声量を絞って言ったかもしれない。S先生は、最初、え?と聞き返してきた。私はもう一度言った。

数日後、学級通信で、隣の小学校の学芸会を見に行ったことが載った。私のことも合わせて書かれていた。「あんなに小さいのに弾けるなんてすごい!と、〇〇ちゃんは驚いていました」と。
壁に掲示された学級通信を読んで、私は これは違う と思った。
私が言いたかったのは、器楽の演奏は全く関係なく、眼鏡をかけていることが珍しい、ということだ。器楽の演奏の良しあしなんて、聴こえない私に評価できるわけがなかろう、と思った。

S先生は、私の話を聞き取り、聞き取れなかった部分は推測で補ったのだ。それが間違っているなんて夢にも思っていないのだろうと思った。学級通信に書くなんて、自分の「推測」が正しいと確信したからこそできることだ。
S先生は、授業で分からなければ質問しなさいとよくいう先生であった。分からないままにしておくことをよしとしない先生であった。
だが、推測が追い付かず分かったふりをしてしまったこともあるのだろうと思った。とすれば、それは、発音の悪い子への気遣いなんだろうなとも思った。

私はその「間違い」を先生に指摘することなく、級友と話題にすることもなく、そのまま学級通信を家に持ち帰った。親とも話題にしなかった。
そして週が改まり、壁に掲示された学級通信に、次の号が上に重ねられた。

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