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一般高校時代

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それまで過ごした聾学校から、一般高校(聾学校ではない)に進学したあとの高校時代のNoteをまとめています。 ※マガジン分類は今後変わることがあります
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2019年12月の記事一覧

「障害を乗り越えて」なんかいなかった。乗り越えたいとも乗り越えようとも思っていなかったが、みんな私を、おいてけぼりにしていった。

私が聾学校中学部から地域の一般高校に入学したのは、当時珍しいことだった。何しろ、新聞に載ったのだから。いまから20数年前の話である。 聾学校に新聞記者がきて校長室で取材を受けた。同席したのは、担任の先生と校長先生。 校長室のソファに初めて座った。初めての座り心地を堪能する間もなく、取材が始まった。記者が私に何かを言った。口は見ていたが、読み取れずまったく分からなかった。そっと周りを見回したが誰も私に教えてくれる雰囲気はなかった。質問の内容を予想し、回答しはじめた。すると隣

卒業式で「ようやく解放された」。私は学校でただ一人耳が聞こえなかった。

吹雪の2月が終わり、日差しがあたたかくなってきていた。雪解けが進み、足跡から路面アスファルトがところどころうっすら見えていた。 この日、私は高校を卒業した。その高校では、自分1人だけが耳が聞こえない生徒だった。自分は、先天性の重度の聴覚障害者で、聴力は左右100dB。補聴器はつけてはいたが、補聴器をつけても音声としては耳に入ってこない。全く聞こえないのと変わらない。 自分は、2歳頃から中学3年生まで、聾学校に通った。聾学校では、幼稚園、小学校、中学校、学校によっては高校

頑張っても「聞こえない」。見渡す限りの大海原で、浮かぶのは私一人。助けは来ないと初めからわかっていた。

詳細な人数は覚えていないが、当時私が通っていた高校には約1000人の生徒がいた。その高校に、1人耳が聞こえない生徒が入学した。それが私だ。 自分にとって「頑張って聞く」ことは、「頑張って口を読む」ことだった。耳は、はなからあてにしていなかった。補聴器をつければなにがしかの音は入るものの、音声としては入ってこない。何か音があるな、ぐらいしかわからなかったからだ。 入学して最初に受けた英語の授業を、今でも覚えている。教室内に入ってきた先生は、髪の毛が薄い男性の先生で、お腹がぽ

もっと早く手話と出会っていたら。聾学校は手話からあまりにも遠い世界だった。

今、私は一日のすべてを手話で過ごしている。職場で同僚との会話は手話。家では、夫や子供たちとの話は手話。友達との会話も手話。手話ができない人たちとは、筆談をする。 だが、私は高校を卒業するまで手話ができなかった。聾学校を幼稚部小学部中学部までと13年間過ごしたが、中学卒業の時点で、私が知っている手話といえば、1~10までの数字、「男」「女」「嘘」「でたらめ」くらいしかなかった。 その後入った高校は、聾学校高等部ではなく、一般の高校。聞こえない生徒は私1人。3年後の高校卒業時に

尾崎豊に出会った、耳が聞こえない私の「15の夜」

小学部にあがったばかりの頃だったか、先生が、童謡をスピーカーから流してどんな歌かを当てさせる問題を出してきた。級友たちと一緒にスピーカーの前に立ち、手をあてた。級友が答えるのをみて、なんでわかるんだろう?と不思議だった。私はいつも答えられなかった。 今思えば、聾学校には、聴力障害の程度が軽い子どももいたのだろう。しかし人によって聴力障害の程度に差があるなんて、当時は思いもしなかった。「ともだち」はみな「耳がきこえない」と思っていた。 この世界には、聞こえないか聞こえるかの2