1.本が嫌いな文学少女

 日曜日の昼下がりとなれば、人々は明日に訪れる責務を振り払うかの如く日陰から這い出て青空を見上げに来る。名古屋市港区、港湾近くのららぽーとに訪れる人々も例外ではなく、建物間を結ぶ遊歩道から見える駐車場待ちの車を見つめ、私はあの混乱の最中を一足早く抜け出した事に少しの安堵を覚えていた。
 今日、この場に訪れた理由に感動的な物語はなくて、ただ、昨日に岐阜の峠道へと抜けるバイクの一台になった時に、ふと視界が何かに遮られていることに気が付いたからだ。眼鏡越しに見える世界に白靄がかかっている理由は単純で、その薄いレンズには数えきれないほどの線傷が残されていたから。普段ならば気が付こうとも見て見ず振りをしてきたものの、サイドミラーに映った私の目元を見れば人々は「彼女は世界の何をも見ないように努めているのか?」と問うだろうな、と思った。けれども、私はそれを「そう思うのならば、ご自由にどうぞ」と言える普段とは違って、数週間後に出会う人物に同じことを思われることに怯えていた。だから、私はベッドに横たわっていた重たい身体を引き摺りながら、穏やかな表情を浮かべる家族たちの合間を縫うようにして店内をうろつく必要があったのだ。
 "十四時半にお越しください。" 
 そう書かれた眼鏡屋の引換券を見返して腕時計を見つめると、液晶を通じて三十分以上の暇が訪れたことを知らされた。結局のところ、私は今掛けているハーフリムの眼鏡と似た見た目のフルリムの眼鏡を注文したことが正しかったことなのかもわからないままカフェを目指して歩みを進めていく。いくつかの眼鏡を試してみたけれど、太いリムの眼鏡では俗すぎる気がするし、丸眼鏡を掛けてしまえば会社で「プロダクトデザイン部の建屋は二つ隣ですよ」と言われてしまう気がした。結局私は、冴えない顔をした自分のイメージ通りにメタル調の細いリムの眼鏡を選んでしまった。鏡に映る私はいつもと変わらない。二つに結んだ髪と没個性的な眼鏡を合わせた文学少女が不満そうな顔を作るだけだった。
 ようやくたどり着いたカフェの前に立ち止まり、メニューを眺めてから私はため息をついた。一杯五百円ほどのコーヒーを飲むことで水道が止められる程に生活に困窮するわけではないが、それでも何も考えずに選んだ眼鏡が材料高騰の影響なのか為替の影響なのか知らないが、以前の眼鏡よりも三千円以上高くなっていたことを思えば、やはり右手は手ぶらにするべきだろうか。壁際に寄りかかって淡々と中身のないネットニュースを見つめていれば三十分などすぐに経つだろうし。けれどもどうしてなのだろうか、私はその行為をする私の姿が、目前を行き交う"目的ある人々"に溶け込めないような気がして。
 やはり、アクリルに反射した私の顔は不満気なままだ。右手の人差し指を頬に当てて口角を上げようとしてみても、意固地で繊細な私の内面は相変わらず変わりはない。けれど、せめて、行動だけでも楽しそうな人々を模倣してみようかと思えたのは幸いだった。メニューから目を離して人の流れに沿って歩みを進めてみる。アウトレット品のスニーカーの店を遠巻きに眺めて先月に勢いで五万円も靴につぎ込んだことを後悔したり、若者向けの衣類品店で棚の合間を抜け、生地の心地を指先で撫でながら裾上げのお願いをする際にどんな言葉を発すればいいのかに悩んだり、ヴィレヴァンで近頃の子たちの流行に追いつけない自分に老いを感じたり。そうした時間は退屈はしないが、それでも目が冴えるほどに体温を上げるほどには心を揺らしてはくれなかった。
 ずっと前、まだ私が学生時代であれば同じ経験でも今の数十倍は色々な感情が沸いただろうか。それとも、あの頃は周囲に誰かが私に笑いかけてくれる子達がいたからだろうか。……その仮説が正しいかを確認する術もない事実が一層、私を哀れにさせる。学生の時から止まった『卒業おめでとう』のメッセージ以降、彼女たちは今、どこで何をしているかさえも知らないし、逆に彼女たちは、まさか私が三百キロも離れた名古屋で傷心を抱えていると想像すらしないだろう。時折届くSNS越しの一方的なメッセージには、誰かを愛して愛されているという報告と共に二つの指輪の写真が添付されているだけだ。もう、脳裏には過去が入る余地すらないように思えてしまうから、こうして過去を見た私と彼女たちはもう相容れないことを知ってしまう。いずれにしても、卒業以降から今までと同じように、これからも私達はお互いを必要ともしないだろう。時折、こうしてふとした時に思い出す程度の価値しかなかったことを悔いたり嗤ったりするだけだ。
 これが、私と人々の差だろうか。店内で歩む人々に孤独が見えないからこそ、一層私は孤独になる。まるで神様が決めたかのように、人々は群れて行動している。ならば私もそうするべきなのだろうか。肩を竦めながら私はパーカーのポケットに両手を突っ込んで当てもなく歩き出した。これだから暇というのは嫌だ。余計なことを考える余地ばかり与えて世界を正しく映してしまう。私にはやはり、傷ついたレンズ越しの歪んだ世界がお似合いなのだろうか。
 それに、私は暇を潰し、心を揺らす場所を知っている。無意識が私を導く先には蔦屋書店へと続く通路があった。恐らく、先ほど巡ったどの場所よりも私が溶け込める場所だ。それは、容姿的な意味でもあるけれど、孤独が集まる場所でもあるから。二人で楽しむには、105mm×173mmという面積は余りにも小さすぎるのだ。
 私の読みの通り、本の背表紙を眺める人々は孤独を愛しながら印字を追って心を揺らして表情を緩ませている。互いに幾何かの距離を取りながら本を探す姿は、私の眼鏡越しには隣の建物で密集を続ける人々よりもずっと自然に見えていた。
 私もそうした人々の行動を真似て、平積みされた新書の一冊を手に取って帯に示されたあらすじを目で追っていく。ミステリーや謎解き、甘酸っぱい恋愛模様。そうした文字を見かけるたびに手に取った本を元の位置へと戻して隣の本を手に取り直す。ノンフィクションや学術書、内面的な葛藤を描いた小説を見つけるたびに、私はページを捲ってその冒頭の文章を数秒読み、心の留まった文章が描かれた本のタイトルを記憶していく。
 そうした行為を繰り返していく内に、私は昔、繰り返し読んでいた小説の著者の新刊を見つけて思わず手に取って中身を確認しようとした。しかし、ビニールに包まれたが故にその願望は叶わず、私はゆっくりと帯を眺めていく。
 男女の恋愛、青春の再来、そして、葛藤。
 私は視線を落とし、その本がいくつ購入されているかを確かめようとした。しかしながら、開店時にどれ程の高さがあったかも知らなければ、いつ補充されたかもわからない本の数を推定することなどできはしない。けれども、隣に並べられた他の新書と同じほどの高さであったことを知り、私は醜い感情を浮かべたと理解しつつも安堵で心を満たされたことを自覚していた。
 私は、本が、嫌いだから。
 文章は嫌いじゃない。寧ろ、ちょこっとだけ好きかもしれない。私が思い至らぬ世界を描き、知る術のなかった事象を私に伝えてくれるから。さらに言うと、紙に印刷されて束になった瞬間に嫌いになるわけでもなければ、液晶越しに出力されたら好きになるわけでもないし、全ての本が嫌いなのでもない。
 私が嫌いなのは、本屋に並んで、お金で誰かに購入される本だ。
 別に私は資本主義を否定しているんじゃない。もっと感情的な理由があった。それは、その本に価値を示されていることが嫌いなのだ。お金を出してでも読みたいと思う本、もっと言えば、出版社が利益を生み出せると確信し、書店が価値を理解して売り場づくりをした上で私たちが目の届く場所に置かれた本が嫌いなのだ。
 でも、それは道端で痰を吐く連中や、野菜炒めに入ったしめじに対して抱く嫌いとはまた違った種類の”嫌い”だ。拒絶したいと願うわけではない、寧ろ、自ら飛び込んで「ああ、私はやっぱりこれが嫌いなのね」と確信することに安らぎを覚えるような、そんなタイプの”嫌い”だ。つまりは、大好きと好きの中間に存在する"嫌い"のようだ。
 それらの価値の認められた本は、私のような価値のない文章を生み出す者にとっては毒でしかないから。
 もしも、私よりも優れた知見と文体を持ち、感動なんてしてしまったならば、もう私などはこの世界で文章を生み出す必要さえもない。彼・彼女がいれば私などは不要だ。私は紛い物にさえもなれない無価値であると知らしめられ、恥を知り、絶望する。
 逆に、私の好まざる文体であり、陳腐なストーリーで、三時間もすれば記憶から消えてしまう物語であれば、人々が求めているものと私が望む世界が余りにも異なることを知り、私が描こうとする世界など誰にとっても価値がないことを知ってしまうから。
 昔は、文章を書くことが楽しくてたまらず、生み出す物語には苦悩はあれどキャラクターは生き続け、脳裏に浮かぶ情景をたどたどしく描き続けている頃はそんな感情を抱くことはなかった。数えきれない本を読み続け、登場人物の心境に共感し、心を痛め、展開上の敵役に憤りを覚えたものだった。
 けれども、いつしかそれらの行為が誰かを認めさせる必要が出た途端に、私は文章が全く書けなくなってしまった。市場に出回る書籍こそが答えであり、描写や展開、感情表現を綴る度に過ちを犯していると確信し、何度も何度も読み返して粗を探し、自分が如何に努力不足かを知らしめられることになった。いつしか、答え合わせのために使い続けて擦り切れたお気に入りの本はシーツの下へと無意識のうちに隠して視界に入らないようにしていた。
 だから、私は本が嫌いだ。嫌いだけれども、私は本を読み続けなければならない。痛みを覚えながら、答えを知って、模倣することでどこかの誰かに「貴方には価値があります」と言ってもらうために。
 だから、私は手に取った本を握りしめたままレジへと向かった。私の部屋には同じ著者の前作が新品同様のまま床に落ちている。シンプルで率直だった表現は徐々に複雑さが増し、繊細というべきか冗長というべきかわからない表現を繰り返している。だから、恐らく私はこの本のビニールを裂くことなく本棚へとしまうだろう。それでも、私は、本を買い続けて本棚を埋めていく。
 そうしてきっと、私はいつか文字を綴ることを止めるのだろうか。買ったばかりの本を鞄へとしまい込みながら、私は出口で足を止めて自動ドアに映る不機嫌顔をじっと見つめていた。不安を覚えて振り返れば、人々の表情は隣の建屋の人々と同じことを知って、心が沈んでいく感覚を味わった。
 それでも孤独な少女は文字を綴り続けなければならない。そうしなければ、きっと、穏やかな心を抱ける日が来ないことを知っていたから。視線の先、本を見つめる人々の一人でもこちらに笑いかけてくれるその日が来ることを願ったまま、私は先程よりも少しだけ日の沈んだ空を眺めていた。


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