2.私の肩書を『善人』にして欲しい

 寮に備え付けられた沢山のポストの中から自身のものを探し出し、投函された一つの封筒を覗いてみる。オンラインバンキング経由で支払い済みの請求書の山の上に鎮座するそれを取り出すと、指先を通じた微かな重みが記憶を呼び起こして、私は緊張しながら差出人を確認をする。
 全国善人評議会 中部センター
 月一回送られるこの封筒の中には、私が望むものが描かれているのだろうか。急いで封を破って、折られた紙に並ぶ文字を読み上げると、私は背筋に冷たいものが流れていく感覚に苛まれた。
 私が起こした行動の記録。他者に向けた善意を数値化したものが立ち並んでいる。側道から出る車に進路を譲る、目の前で落とされた財布を夫人に返却する、お釣りをレジ横の募金箱へ放り込む。それらの行為の横には数値が並び、私の想像よりも加点されなかったことに憤って、天下りで席に着いた評議会なる組織に悪態をつきそうになる。けれども、それよりも目についたのは、赤字で書かれた『言葉で他人を不快にさせる』とあった。
 曖昧な意味しか持たない文字列には日付も時刻も残されていない。前後の記載を頼りに、私がいつ、何を発言して記録を残されたのか必死に考え、いくつか思い当たった場面の一つ一つを潰していく。けれども、それらの可能性を浮かべるたびに”でも、それは、私だって先に傷つけられたもの。仕方がないでしょう?”と口に漏らしたくなり、それでも口にできない想いが握りこんだ紙へと伝わり、その表面に皺を作った。
 結局、行為さえも特定できない一つの無自覚な悪行は様々な加点を一度に帳消しにし、私の善人値は標準値を4%程に下回らせる結果となった。地区の偏差値は50を割り、"二人に一人。悪人は、貴方です"と警告書が同封されていた。そこには、直ちに行動を改善し、同じ事象を引き起こさないように反省文を記載した上で返送するように命令が下っていた。
 息が詰まりそうな感覚と共に、私はインターネットを通じて私と同じ状況に陥った人々を探し始めた。しかし、私が望む記載を見つけるよりも"善人判定が降りなかった連中って生きる価値あるの?"とも"政治家連中さえ善人判定なのに、それよりも低い評価が下されるやつとか草"とも"45歳職歴なしニートだけど俺より善人値低い奴おりゅ?w"といった記載の方が目に付いてしまった。
 そうしたネットの落書きさえも、今の傷心には酷い苦痛となり、私は前髪を握りながらしゃがみ込んだ。それでも、喉から溢れそうな逆上の言葉を残すことはできない。もしも、それが誰かの耳に届けば、感情を害すれば、来月はもっと、もっと、私は悪人と評される。
 誰かの足音が聞こえて、私はハッとして目元を拭い、その根源を辿って顔を上げる。そこには、互いに名前を知らない同期の少女がいた。
「おはようございます」
「……おはよう」
 できる限り、明るい声を出した。
 私の、無理やり作った笑顔でのあいさつを返すまでの間に、彼女が私の右手に握りこまれた紙をじっと見ていた。拳からはみ出た領域の文字の色を追って、恐らく、私がどんな評価だったのかを知ったのだろう。
 彼女の浮かべた笑顔は本当に嬉しそうで。
 そんな表情を浮かべられた私は、それでも笑顔を浮かべなければならなくて。その内面がまるで対極に位置していたとしても。
 その時に私が出来ることといったら、これ以上に傷つけられないように、誰かに傲慢な評価を下されないように、急ぎ足でその場を離れることだけだった。
 彼女が来月、この行動で評価が下がってくれることを祈っていた。けれども、その程度では互いに"公的な"評価は下がらない。ただ、何の効力も持ちえない私の内面評価に響くだけ。
 彼女は……私は、悪人。それが私の内面で下した最終評価であった。


 私は、ディストピア世界に生きているわけではない。だから、上記の世界は、私が一時間で構成した馬鹿げた脳内世界だ。
 (……ここから、評議会の評価に支配された人々の苦悩と汚職、他者の目を欺く偽善と、己を犠牲にした善性、そして他者によって崩された自己像に狂わされていく少女を描くのも悪くはないけれども……)

 けれども、私はこれを日記として分類したのは理由がある。
 ”全国善人評議会”はなくとも、私の中には似たような機構が脳に居座っているから。その目的は他人を表する傲慢さゆえではなくて、自分自身を評するためにあった。

 私は、他者が怖い。どうしようもなく怖い。
 相手が、何を考えているかがわからないから。
 指先の動き、微かに上下する眉、細めた瞼。それらから類推することは出来ても、彼らが空間に残した言葉に意味を求めようとも、真の感情を理解することなど不可能だから、どうしようもなく恐ろしい。
 だから、この世界が全ての他者と断絶しても生存できるその日が来るまでは、私は出来る限りを尽くして、他者に”善人”と思われるべく行動を、言動をしなければならない。たとえ、善人と思われることで私に不利益を被る形になっても。

 毎週水曜日に私は、名古屋から会社へと一時間以上もかけて移動する。毎日、まともに眠れないから頭がガンガンに痛い。車はオンボロ。ヌルリ、という感覚で踏み込むクラッチペダルに冷や汗をかいて、狂いそうなほどの湿度で車内は熱を帯びて、耐えかねて窓を開ければウィンドウスイッチに横殴りの雨が入ってショートしないか不安を覚えてしまう。交通事情は劣悪で、前は牛歩、後ろは激怒。挟まれた私は、オークションでさえも手に入らない純正リアバンパーを砕かれないか気が気じゃない状態で延々県道を走ることになる。
 そうしていれば、私は会社の駐車場に着く頃には疲労困憊で、結んだ二つの髪を垂らしながらハンドルに頭を押し付け、眠気に狂いそうな頭を叩き起こすように頬を叩き、眉に皺を寄せながら車から降りることになる。
 その足で朝食と昼食を買うためにコンビニに行く。おにぎりの棚はガラガラで、残っているのは苦手な梅おにぎりと何の感情の沸かない昆布おにぎりだけだ。内心、ため息をつく。だから他の棚を一周してからゼリーを一つとサラダチキン一つだけを手にしてレジに差し出す。
 「お会計お願いします」
 可能な限り笑顔で伝える。もしかすると眉尻が下がりきっているかもしれないけれど。
 「ありがとうございます」
 店員と私の声が重なって恥ずかしくなる。だから袋を受け取ってから、照れ隠しに会釈をして足早に店の外へと出る。そうして真に欲しいものが手に入らなかった私は肩を落としてオフィスを目指して足を引き摺ることになる。

 この時、私はどうして無理に笑顔を作ったのだろうか。馬鹿なドライバーに囲まれて疲れ切り、品揃えの悪さにストレスを感じたならば、素直で利己的な私ならば、眠気も相まって鋭い目線で見るものすべてに臨戦態勢を取るだろう。
 コンビニの店員さんが怖かったのだろうか。いや、レジに立つのは初老の女性だった。対応は何も問題ない。寧ろ、丁重過ぎて時間がかかりすぎている程だ。その表情は柔らかく、私に敵意を向けていないように思える。
 それでも、私は彼女の何を知っているのだろうか?
 今までどんな時間を過ごして、どんな世界を見てきたのだろうか?もっと時間を絞れば今日、起床してからどのようにしてこの場に姿を現し、その瞳で私を捉えた時にどんな感情を抱いたのだろうか。直接聞いてみれば答えは出るのだろうか?いや、疲労を隠しきれない若造が妙な言葉を口走ればたちまち、『相手を刺激しない接客マニュアル』に切り替えて対応されるでしょうね。

 結局のところ、どうやったところで相手が私に持つ感情はわからない。ならば、たとえ悪い感情を抱かれたところでどうなるのだろうか?
 もしも、あの店員さんが何かしらの理由で私に強烈な嫌悪を抱いたとしても、商品は金銭の支払いを以って私の所有物となるから、昼に飢え死ぬことは起こりえない。強いて言うならば、そのコンビニに入るたびに憎悪を込めた視線を受け、泣き出したくなる程度の問題しか起こらないだろう。
 それらの被害を受けた時、真に心当たりがないのならば、相手側の内面に持つ、私とは関係のない個人的な問題が原因かもしれないと割り切れるのかもしれない。
 問題なのは、私に心当たりがある場合だった。相手に対して私のトリガーになるいくつかの片鱗……例えば、同僚からの容姿や信条に対するからかいの言葉や、上司からの勘違いが原因の説教、手順や日程を守らないまま投げられる他部署からの依頼……そういった類の問題に直面した時に、私は時折、耐え難い感情が表立ってしまうことがある。
 そうした問題ある私の態度を目前にしたとき、相手は大概、問題を回避する為の行動を取り、私を窘め、別の問題解決アプローチを取ってくれることが大半だ。そうして、組織はどうにかしてプロジェクトを進行していく。
 そう、仕事は滞りなく進んでいる。ならば、何が問題なのか。
 それは、私の内面に渦巻く罪の感情だ。
 もしも、私が相手の言葉をどうにかして受け入れ、上司の叱責に対して理論整然と言葉を返し、同僚のルッキズム思考にウィットに富んだジョーク(と皮肉)を返せれば、周囲は何も困ることが無かったのだ。無駄な工数を使わず、気苦労を負わせず、そして何よりも「モチヅキマコトは面倒な奴だ」と思われなくて済むはずだった。けれども、そうはならなかった。そうはなってはくれなかったことの方が、あまりにも多かったのだ。

 それに、もう一つだけ問題があった。
 人々は、私が起こした感情隆起はいつの日にか忘れていくものだろう。家族との旅行、恋人との甘いひと時、ウィスキーを片手にギターを弾く時間、目を閉じ、個々人が内面に秘めた問題に頭を抱える時間によって、私の恥は上書きされていく。
 けれども、私自身はどうだろうか。
 人々は、私が起こした事象と結論だけを見て、類推した上で私に評価を下していく。その過程では、良くも悪くも真実とは異なる部分が出てくるだろう。けれども、私は、私の視線から、感情からは決して逃れられない。
 その時、問題を起こした原因が利己的な感情に基づいていればいるほど、私は自分の罪をその身に刻むことになる。相手の事情を考えない一方向的な強い言葉や、望む行動を取ってくれなかった人間への一方的な逆恨み、相手の記憶に残るために行った目前での自殺未遂。そのような私の罪を決して忘れることが出来ない。
 そうなれば、私は、いつしか自分自身の存在そのものに罪を覚えていく。周囲の人間の態度が、言葉が、自分の望むものではなかったことに対して(私は善人ではないから、そのような態度を、言葉を受けても仕方がないのだ)と黙って受け入れなければならない、と強く信じるようになる。たとえ、それが、私の過去など知る由もない相手だとしても、私は『私の感情と記憶を用いて類推した相手の感情』を見るが故に、私の頭を支配していくものは、相手の実際の感情や思考から遥かに乖離し、強烈な被害妄想や言葉を曲解した答えばかりになっていく。

 だから、私は可能な限り、私の罪を増やさないようにと怯えた態度で他人と接するようになっていった。歪な笑顔と、相手が望む(と類推した)ものを与えられるように行動をするようになった。そこには、私がどう考えるか、どう感じるかなどは関係などない。そんなものは重要ではない。そう思い込んだからこそ、私はいつでも"善人"でいようとする。

 けれども、繰り返しの言葉にはなるけれども、相手の脳を覗き込めない以上、相手から見て私が善人である証明はどうするのだろうか?悩みぬいた挙句に(それは自分自身でしかないわ)と誤判断した私は、可能な限り仕事を手伝い、微笑みを浮かべ「貴方は比類なき才能をもっているわ!」と伝え続けた後輩に「自分を下げておいて、相手に褒められたい感情が見え透いていますよ。貴方の嘘偽りばかりの言葉にはうんざりです♡」と場末の居酒屋で伝えられたとき、哀れにも私は再び、防衛機制が生み出した憤怒により罪を抱えることになった。

 それでも、他にどんな行動が、思想が正解なのかわからない一人の哀れな少女は、今日も哀れにも卑屈な笑顔を浮かべて、(今日こそ、私は善人になれるのだろうか?)と世界に問いかけながら、心をゆっくりと打ち砕いていく。

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