三次創作 初恋性ストックホルム症候群

初恋と最後の恋の違いをご存知?
初恋は、これが最後の恋だと思うし
最後の恋は、これこそ初恋だと思うもの。

           byトーベ・ヤンソン

Coc「初恋性ストックホルム症候群」
二次創作夢小説 連載

一巡目
side立花燐
花冷えが続く4月上旬。
長い春休みも終わったが、あいも変わらずバイト終わりに授業に参加していた。
実習表を見ながら覚醒し切らない重い瞼を擦る、このおじいちゃん先生の話はいつも眠くなってしまうのが困りものだった。
「それからから赴任してきた先生がいます…菊池先生どうぞ」
私語も少ない医学部の教室が珍しく騒つく、教卓側の引き戸から1人の男性が入ってきた
染めた事が無さそうな純粋な黒髪は前髪が少し目元を隠している。
「(私、後ろの席だけどめっちゃ背高いな…)」
遠目から見ても鍛えられた体躯は白衣越しでも一目瞭然だった。
決して目を見張るような美丈夫だとかそういう容姿が惹きつけられるという感じでは無い、しかし確かな存在感を放つ彼…菊池春久との出会いだった。

私が通っている大学の医学部講師達は現場を離れた、現職をドロップアウトした元医者という人が多い、だから菊池春久という若い男の保健医が着任した4月初め、彼は医学部女子の間で瞬く間に時の人となった。

「ねぇねぇ燐聞いてよ!この間の実習でさぁ菊池先生に色々教えてもらったんだけどめっちゃ優しくてサイコーだった」
「あっそ、良かったね…香菜子ごはん冷めるよ」
「んもう!燐冷たいっ…」
菊池先生の事をお熱に語るこの少女は同級生の土屋香菜子(つちやかなこ)明るい茶髪をお団子スタイルで可愛くまとめ上げ流行りのメイクをキッチリこなす女子力の塊、一見チャラそうと誤解されるがこれでも所属学科の成績上位者である。
彼女はとにかく恋愛という括りのものが大好きで、自称恋愛マスターと名乗るほど、忙しい医学部保健学科に所属しながらも、休日は彼氏とデートに自分の美容メンテナンスを欠かさないらしい。
「んな事言ったって、彼氏持ちでしょうが」
「もう何言ってるの、確かに彼氏はいるけど、かっこいい人をかっこいいって言って何もバチは当たらないでしょ?」
はぁと、燐は香菜子の奔放な発言に深くため息をついた。
彼女の興味は菊池先生から燐の弁当へと意識が移る。
「あっ、燐の今日のお弁当美味しそう!唐揚げと私のハンバーグ交換しよ」
「いいよ…やっぱりハンバーグ入らない、あげる」
「えっ、もらって良いの?やったー……燐もしかして体調悪い?」
「え、そんな事ないけど、食欲というより眠気が酷くて…」
「なるほど、もし辛かったら無理しちゃダメだよ、普段から過労気味なんだから」
「……うん、そだね」
友人の心配は嬉しいが、無理をしてでもバイト漬けの生活から抜け出すことができない。
それは、家庭の事情が深く絡んでいるからだ。

両親が若い頃、燐に物心がやっとついた年に父親が知り合いに騙され大きな借金をしてしまった、それから家族の生活は激変し、父は出稼ぎにどこかに行ってしまい、母も燐の育児と両立して仕事を再開した、幼いながらも母親が目に見えて疲労を溜めて家事をこなす姿を見るのはなんとも言えない虚しさを覚えた。
燐の自立心は小学校あたりからぐんぐん鍛えられ、小学校高学年あたりからは家のことをこなすようになっていった。
同い年の子供達と遊ぶこともせずまっすぐに家に帰り家のことをやって、宿題をこなす、そんな日々が続き、今ではバイトを3個掛け持ちし家事をこなす…10代にしては生活力に長けた勤労少女に成長したのだ。

だから、香菜子のように休日に誰かと遊んだり、デートに行ったりなんて考えもしなかった、香菜子にその話をしたらなぜか大泣きしながらウチの養子になれ、なんておかしな事も言い始めたので、良いとこの家の子はやっぱり考えが飛躍してるな、なんて思った日から約一年が経っていた。
「それにしても、今年から実習凄そうだね、兄貴から聞いてたけど、実際に体感すると話の倍くらい多い」
香菜子はもらった唐揚げを齧りながら辟易とした声でそう言った。
「んー、バイトの時間減るのは辛いけど、資格の勉強できるのは嬉しいかな、忙しくなるね」
「燐って本当に稼ぐこと意外に興味ないよね歪みないな」
「彼氏作ったって腹の足しにもなんないじゃない」
「ひどー、もう燐とは口聞かないー」
「その言葉何回目よ」
お互い皮肉を言い合い、なんだか可笑しくて笑ってしまった。

午後、空きコマができた燐は時間まで図書館で自習でもしようと学内を歩いていたが、急にクラリと視界が揺れた。
「あれ、なんかおかしいな…ちゃんとご飯食べたのに」
呼吸も少しずつ浅くなり、立っているのがやっとになってしまった、手に持っていたバックは滑り落ち 廊下にバラバラと中身が散乱する、止めたいのに見ていることしかできなかった。

やばい、こんな時に貧血?

倒れない様にしゃがもうとしたが、視界がブラックアウトする方が早かった。

フワっと胃の腑が迫り上がるような不快感が襲う、倒れる…そう感じた瞬間、暖かくて力強い何かに抱き止められた、呼びかける声も朧げに聞こえたけど

そこで意識がプッツリと途切れた。

side菊池春久

今年から大学の保健医として働くことになった。

病院とは勝手が違うが、私生活でも色々あった為、何か新しいことに打ち込めるのはありがたかった。
「菊池春久と言います、保健医として配属にはなりましたが、理学療法士や幾つか専門資格も持っているので、実習の際にはサポートに回ります、これからどうぞよろしく」

学生への挨拶としては、少し硬すぎる物だったが小さな子供ではないんだ、まぁこんなもんか、なんて思いながらあっという間に午前中の予定が終わっていった。

「菊池先生、甘いものはお好きですかな?」
昼食を手早くすませた後、教師達のミーティングに参加した時のことであった、ミーテイングが終わり席をたとうとしたところ、2年生の担任である新野先生がそんなことを聞いてきた。
「甘いもの、ですか?好きですけど」
「おお、それは良かった、半日慣れないことで大変だったでしょう、良かったら食べてください、はい、黄金糖」
そう言って新野先生は胸ポケットから何個かの黄金等を取り出し俺に手渡した。
「あ、ありがとうございます、俺好きなんですよね、こういう昔ながらのお菓子」
「おやぁ、菊池先生のような若い先生でもお好きなんですね、良かった良かった、最近の子はあまり食べなみたいで」
新野先生は少し寂しそうに眉を下げるも、好きと言ったからだろうかもう少しどうぞと言って、結局5個も黄金糖をくれた。

白衣のポケットに黄金糖を入れて保健室に戻ることにした、階段を降りている途中、廊下でバサバサっと何かが落ちた音が響いた、保健室のある棟は教室も無いため人の往来がほとんどないのだ、疑問に思い廊下を見渡すと、廊下の窓際に一人の女子がいた、こめかみを抑え足元には荷物が散乱している。

考えるよりも先に体が動いた、女の体がグラリと揺れ倒れる。
「っ!!、おい、大丈夫か!?」
間一髪で倒れかけた身体を受け止め呼びかけるが、瞳孔が開き焦点があっていない、唇も真っ青で呼吸も浅くなっている。
声をかけた瞬間、少しだけ此方に反応したようだったが、すぐに意識が途切れ、ダラリと体が弛緩した。
「はぁ、びっくりした…」
自分たち二人以外は誰も通らない廊下にため息がこだまする、受け止めた彼女は思いの外小柄でびっくりした、少女を運ぶべく抱きかかえた。
「荷物は、後ででいいか…」
床には自分が投げた荷物と少女の散乱したバック、足元を確認すると、散乱した教科書類は全て医学部で使うものばかりだった。
散乱した教科書の裏面が見えてそこには少女の名前が書いてあった。
「立花…りん?」
名前は達筆で勇ましい感じで立花燐、と書かれていた。

それが後の恋人となる、立花燐との出会いだった。


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目覚めた瞬間、目に入ったのは真っ白な天井と消毒液の匂いで満たされた清潔なベットだった。

「んんぅ…あ、れ?」

まだ頭がぼんやりとしていて状況が掴めない、たしか図書室に向かう途中、貧血で倒れたのだ。

ジクジク痛む頭を抱え身動ぎした。

左右を見渡せば簡素なパイプベッドが両脇に2台、未使用の状態で置いてある。

「起きたか、気分はどうだ?」

首を曲げると、そこには保健医である菊池春久の姿があった。

「菊池…先生?」

先生は向かいのベットに腰掛け私に話しかけた。

「とりあえず先にビタミン剤を飲んで、担任の先生には連絡入れといたから」

「えっと、ここまではどうやって…」

「倒れそうになった君を、俺が運んだよ、たまたま通りかかって良かった、もう少し遅かったら、頭を強打してるとこだったよ」

「そうなんだ…えっと、ありがとう、ございます、運んでくれて」

覚醒しない頭でボンヤリとお礼を返すと、先生は瞠目し、そして少し困ったような複雑そうな顔をした。

「お礼は受け取るけど…まず医学生なら自分の体調管理はしっかりしないと本末転倒だぞ、ちゃんと寝てるのか?」

「…えっと、4時間ほど」

燐は正直に超えると、4時間!?と先生が驚いた。

「全然足りてないじゃないか」

10代の大切な睡眠時間を、と言いながらコメカミを抑えていた

「あっ!あの今何時ですか!……わっ」

「あぁコラ、急に起き上がるな」

ぐらりと視界が大きく揺れ上体が斜めに傾く

「そそっかしいな…」

慌てた春久が燐の体を支えてくれた。

「す、すみません…」

正論すぎてぐうの音も出なかった。

「…今は15時半、気を失ってからはまぁ1時間半くらいは経ってるんじゃないかな、目の下のクマもひどいし、疲れが出たんだろう」

15時半、あと10分程度で次の授業が始まるではないか。

「やばっ授業行かなきゃっ…」

「おいおい、そんな状態で授業に出るのか?それは流石に保健医として認められないな」

でも、とゴネる燐を遮るようにガチャリと保健室のドアが開いた。

「菊池先生失礼しますよ、…あぁ立花さん起きていましたか、心配しましたよ」

「新野先生…」

担任の新野先生は診察をするように、燐の顔色や脈拍など触診を行うと。

「過労に貧血といったところですかね、今回の授業はレポート提出に変更しますから、今日はゆっくりおやすみなさい、ご家庭の事情もありますが、今のあなたに必要なのは十分な休息と栄養のある食事ですね」

新野先生は医者としてとても優秀な人だ、その人から直接そんなことを言ってしまわれたら、抵抗の意思は消えた。

「じゃあ菊池先生、あとは頼みますね、私はこれから授業ですので」

「はい、ありがとうございます、新野先生」

新野先生は燐の頭をポンとすると、こんを詰めすぎるのも体に毒ですよ、と言い残してあっさりと保健室から出て行った。

二人の間に気まずい沈黙が降りたが、春久が締まりなくあぁ、と声を漏らした。

「親御さんにも連絡は入れたから、来るまでゆっくりしておけ…事情は知らないけど休むのは大切だぞ」

「……はい」

燐は自己管理の甘さに反省した。

今までこなしていた事が出来なくなった自分に嫌気がさして、ほんの少しだけ涙がでた。



「燐ちゃん!!」

「お母さん…」

それから2時間後、仕事を早退してきた母親が迎えにきてくれた。

「すぐに来てあげられなくてごめんね」

「いいよ、仕事途中だったのに、来てくれてありがと」

母親は慌ててきたのか看護服のままだった。

「燐ちゃんお母さんよりなんでも出来ちゃうから、頼り切ってしまってほんとに情けないわ…先生に挨拶したらお家に帰りましょうか」

帰り支度をして保健室を出る前に私は菊池先生の元へと向かった。

「菊池先生」

個室のドアが開き、菊池先生が姿を表した。

「今日はありがとうございました、母が迎えにきてくれたので、今日はこれで失礼します」

「別にお礼を言われる事じゃないよ」

「でも、本当に助かりました、ありがとうございます」

私は会釈をして踵を返したが、すぐに呼び止められた。

「ちょっと待て」

「はい、なんですか」

「あぁ、いや…大学の保健室は殆ど使う奴なんていない、だから」

「?」

「その、なんだ、昼寝場所としてはもってこいだ」

「はぁ…」

私は菊池先生の言いたいことがわからずに気の無い返事をする、先生は腕を組んで扉の柱にもたれ掛かり、フッと肩の力を抜くとこう言った。

「疲れたら、ここに来て休めばいいよ」

「へ?…体調が悪くなくても?」

「そう、体調が悪くなくても…疲れたなとか、眠いなって思ったらここのベットを使えばいい、保健室には俺しかいないからな」

「なんかでも、それって、ズルみたいで…よくない気がします」

「ズル…ふっははっ」

「どうして笑うんですか?」

「いや、…ふふ、立花お前、ほんとに真面目だな、ふふっ」

「むぅ…だって本当のことじゃないですか」

春久はカラッと屈託なく笑いながら、ズルなんかじゃないさと言って燐の頭を少し乱雑に撫でた。

「ちょっ、急になんですか!」

「はぁ、久しぶりにこんなに笑った…ごめんごめん…」

大笑いされた事に燐はムッとなった

「立花…そんなに堅苦しく考えなくていいんだよ、ずっと肩肘張ってちゃ疲れるだろ?」


言い返そうと思ったのに、私は何故か言い返せなかった。


だって、あんまりに優しい表情でそんな事を言うのだから、返す言葉が迷子になって、つい、惚けてしまった。


そんな言葉をかけてもらったのなんて、初めてだったから。




燐ちゃんは小さいのに我慢出来て偉いね


なんでもできて凄いね、頑張ってね


しっかり者だから安心だね、これからもお母さん手伝って頑張ってね。


言われ慣れていた言葉たちが頭をよぎる



今までにない感情が心を騒つかせて、妙なもどかしさが背中を駆け上がる。


心臓がキュッと縮んだような気がして、思わず奥歯を噛み締めた、そうしないと、苦しくなりそうだった。



「あっそうだ、飴好き?」

「えっ、…好き、ですけど」

燐の心境など梅雨知らずの彼は、まるで天気の話をするように気軽な調子で話題を変えた。

「手出して」

言われるがままに、燐は素直に手を差し出した。

「これあげる」

「これって、…黄金糖?」

掌に乗せられたのは2個の金色に輝く、昔ながらの黄金糖であった。

「そ、じゃあ、お大事に」

彼はいい事したな、みたいに少し清々しさが滲む笑顔で燐達を保健室から見送ったのであった。



「お母さん、これ一個あげる」

「あら、黄金糖?懐かしいわね、燐好きだったっけ?」

「なんか先生からもらった」

「先生?担任の新野先生?」

「ううん、保健医の菊池先生」

「あら?そうなのね、見た目によらず結構古風なのかしら」

古風というよりジジ臭いの間違いでは?なんて、心の中で毒付きながらもう一つの黄金糖を口の中に放り込んだ。

拗ずぎるほど甘いそれは、でもどこか懐かしくて口の中で転がせば焦がしたカラメルのような香ばしい風味が鼻を抜ける。

「黄金糖、美味しいね」

「そうね、たまに食べると美味しいわね」

燐にとっては、今まで食べた黄金糖の中で一等美味しく感じた。

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「ふあぁぁ」
「大欠伸だね、燐」
ある日の午後、香菜子と試験勉強に勤しんでいた時、ひどく眠くて大欠伸をした。
「うん、最近眠気酷くて…生理前かな」
「確か私と周期一週間くらいズレてたよね、じゃあそろそろかも」
「こういう時のモチベーションって、全然上がらないよね」
「わかる、なんでもダルいし、化粧ノリも悪いし、いい事ないよね」
この会話を皮切りに二人の集中力はあっけなく切れ、おしゃべりタイムが始まった。
他愛無い話を、お互いが好きなように話す、会話が成立しているようで、していなくて、それも面白くて時々笑って。

そうしてあっという間に30分が過ぎた。

「わっ、もうこんな時間!?ごめん燐!これから用事あるから先に出るね」
「おっけ、気をつけてね」
バイバーイと言って香菜子は教室を後にした。
「さて、もう少し勉強するかな…」
おもいっきり背伸びをして机に向かう、がしかし、さっきの眠気が燐を襲う。
「ムリ、全然頭に入らない…」
数分も経たないうちに燐はペンを置いて、頬杖をつきため息を吐いた、眠過ぎて何も手に付かない。
誰もいない午後の教室、鳥の囀りも話し声も聞こえない、急に、酷く寂しい場所に思えてきた。
「………………保健室、行ってみようかな…」
別に深い理由はなかったし、彼が言っていた言葉を律儀に守らなければ、なんて事も思っていない、けど、何となく行ってみようと言う気持ちになったから……そう、ただなんとなく行くだけだ。

誰に言うでも無い言い訳を頭の中で並べて、足は保健室へと伸びていく。
「本当に、来ちゃった…」
あれ以来保健室には立ち寄ってはいない、それもあって、あの言葉が無効になってるのでは?なんて燐は思っていた。
「いちいち、菊池先生も生徒に言った事覚えてるわけじゃ無いんだし、はぁ、私何やってるんだろ」
いざ保健室を前ににして怖気ついた燐は、手にかけたドアノブから手を引こうとした時、内側からガチャリとドアが開いた。
「「あ」」
当然燐はその場に佇んでいたのでドアを開けた人物と鉢合わせる。
ドアを開けた人物は勿論保健医の菊池春久である。
春久は燐を見て、人の良さそうな笑みを向ける。
「こんにちは」
「…こ、こんにちは…」
「俺今から職員室いくから、ベッド使ったりゆっくりしてていぞ」
「え、いや」
天気の話をするみたいに、春久はそう答えた
燐はまさかそんな事言われると思っていなかったので、狼狽えて言葉が吃った。
「あれ?昼寝しに来たんじゃないのか?」
春久はさも当然と言った風に、燐に尋ねた。
「あ……えと……」
そうですと、嘘もつけない燐は今にも消え入りそうな声で答えた。
「うん、いいよ」
春久は優しい声色で、そして燐の頭をポンと軽く手を置くようにひと撫でして保健室を出て行った。

「……」
保健室に入れば消毒液や石鹸の様な清潔な香りが部屋中に充満している、静かすぎるその部屋にそろっと進み、ベッドを見やれば、以前と変わらず3個のベッドが鎮座している。
「眠かったけど…なんかそうでもなくなったな……」
さっきの眠気は何処に行ったのか、今は随分と目が冴えた。
燐は保健室に備え付けの机と椅子に座り、参考書を取り出した、パラパラとめくり、読みかけのページをなぞってぽつぽつと読み進める、ペラペラと紙を捲る音と秒針の音、規則的な細かい音は人の心を落ち着かせる、午後の日差しが燐の背中を照らす、ポカポカとした日差しが徐々に燐の眠気を誘発させた。
紙を捲る音が、段々とゆっくりになり、そして、数分後、保健室には秒針を刻む音だけが木霊した。

「…あれ」
春久が保健室に戻ると、椅子の上で膝を抱えて眠りこける燐の姿があった、手には分厚い参考書が握られている。
「ベッド使えば良かったのに…」
そんなに大きな椅子でもないが、まるまって寝ている燐は小さく頼りなく見える、授業や実習で見かけるとき、彼女はとても利発で頼り甲斐のある大きな存在に見えてしまうのが不思議だった。

春久は、手から滑り落ちそうになった参考書をとって机に置いた。
燐の寝息は穏やかで、以外に眠りは深いものらしい、少し顔を伺えは、うっすらと目の下にクマができていた。
「……」
春久はそっと、燐が起きないようにその小さな体を抱えた。
「相変わらず軽いな…」
不安になる程軽いと感じてしまう、少しお節介な心配を彼女にしてしまうのはなんでだろうか
その理由がなんなのかまではわからない。

「んん…むにゃ」
燐は居心地のいいところを探すように、春久の腕の中で身じろぎ、そうして満足すると、また寝息を立て始めた。
その姿に春久は思わず苦笑した。

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陽の光を存分に浴びて樹々は青々と茂り、徐々に季節の移ろいを見せ始めた。

街路樹や歩道の間には蕾の紫陽花が徐々に顔を出しその美しい花弁を広げ始めた頃、燐の保健室通いも恒例のものとなっていた。

「…もう直ぐで梅雨入りなんだって、先生」

「……ん?もうそんな時期か」

今日も燐は、空きコマを利用して保健室で自習をしていた、なんとなくだが保健室で自習するといつもより捗っている気がして、それも気に入って燐は進んで保健室に行く様になった。

最初は何か言われるかと思ったが、部屋の主である菊池春久は、特に咎める事なく、なんなら「お、自習か?…真面目だな」

なんて言って、偶にしるこサンドやら黒糖飴やらをくれたりした。

そうしているうちに、段々と世間話をする様になって。

春久とのお喋りも、いつの間にか増えていった。

「梅雨って洗濯物乾かないのは嫌なんだけ、アルバイトは良いのがあって好きなんですよね」

「…そうなのか?」

「6月ってブライダル系の短期増えるから、時給も高いし、余ったご馳走様持って帰ったり出来るからめっちゃ助かるんです」

「本当に色んなアルバイトしてるんだな…」

「そう…ですか?んー、まぁ医学生にしては多いのかな」

「だってこの前は駅前のパン屋でレジ打ちとかしてただろ」

「えっ、先生あそこ通ったんですか?…え、何この問題」

「…どこかわからないのか?」

与太話をしてたと思えば、急に参考書に齧り付く、2人の会話…と言うか、燐の会話は出会った時よりも砕けていて、そして意外に奔放なものだった。

春久自身も、彼女との交流は日々のちょっとした楽しみらしく嬉々として会話に参加してくれた。


保健医は仕事や授業以外で生徒達と交流することはあまりない。

元来話好きの春久にとって、日がな一日誰も来ない保健室で業務を粛々とこなすのは少し、いや…かなりストレスの溜まるもので、こうして偶に保健室に遊びに来てくれる燐の存在は大きかった。



「あぁ、これはここのページが参考になるぞ」

「おぉ、なるほど、ありがとうございます、菊池先生」

「どういたしまして」


燐に集中スイッチが入ったのか、黙々とノートと参考書に向き合う、春久はその姿を見てそっと自分のデスクに戻った。





「んーー!ノルマ達成、お腹減ったー」

「お、お疲れさん」

日も傾き始めた頃、燐は伸びをしながらそう呟いた。

見計ったように、春久がマグカップを二つ持ってきて、一つを机の上においた。

「あっカフェオレだ!ありがとうございます」

燐はマグカップを両手で包み込むように持つと、嬉々としてカフェオレを口に含んだ。

「今日もこれからバイトに行くのか?」

「いいえ、今日と明日はバイトはお休みにしてるんです。ふへへ」

燐はニヘラっと締まりの無い顔でそう言った。

「なんだ?えらく機嫌が良さそうだな、遊ぶ予定でもあるのか?」

「いえ、今日は待ちに待ってた新作ゲームの発売日なんです!好きな配信者さんも今夜からライブ配信で実況するって告知もあって、だからアルバイトは一旦お休みです!」

容姿や年齢の割に落ち着いた雰囲気ではあるが、好きなもの事を話す姿は年相応に幼く可愛げがある。

春久は微笑ましいな、なんて思いながらも、彼女の意外な趣味を聞いて好奇心で質問した。

「へぇ、どんなゲームなんだ?」

「気になりますか?これですっ!」

燐はご機嫌でスマホを手早く弄ると春久にとある画面を見せた、そして春久は数秒前の自分の発言を軽く恨むことになる。


画面に映るのはおどろおどろしい血みどろの幽霊に立ち向かうフィルムカメラを持った少女が描かれていた、タイトルと思しき文字がこれまた奇怪なレタリングで表現されており、春久の恐怖心を煽るには十分だった。


「ヒッ」

「新作ホラーゲーム!ストーリーも怖さも最高峰傑作ですよ!!もう凄い楽しみで…て、先生?」

「な、なんでも、ない、ぞ…そうか、ほ、ホラーゲームが好きなんだな、意外だったよ」

「先生顔が引き攣ってますけど、もしかして怖いの嫌い?」

「えっ!いやあーーーー、えーっと」

春久にしては歯切れの悪い返事で、燐は不思議そうに春久を見上げた。

「なんか医学部の子達って理系脳が多いから全然ホラー大丈夫な子ばっかりだったけど、怖がりな人もいるんですね」

「うぐっ…」

一回りも年下の女の子から”怖がりなんだ”と言われたことに割とショックを受けてしまった。

何気ない燐の言葉にグサリと春久のプライドが傷つく。


「ごめんね、先生、今度から気をつけるよ」

燐は特に気にした風もなく、スマホをポケットに直した。


「…いや、別に嫌い、とかでは、ないぞ、大の大人が、げ、ゲームで怖がるなんてないだろ」

「……ふーん、じゃあせっかくなんで息抜きに一緒に見てみますか?新作では無いんですけど、過去作のプレイ動画」

「えっ」

思わぬ燐の誘いに春久は瞠目し、そして、しょうもない見栄を張ったことを後悔した、燐はというと、意地の悪そうな笑顔でこちらを見上げていた、完全におちょくられている。


「いやぁ、まだ仕事、残ってるからなぁ、い、今はちょっと、む、難しいかもな、はははは」

「うーん、そっか、それは仕方ないですね、カフェオレごちそうさまでした、今日はこのまま帰りますね」

「あ、あぁ、気をつけてな」

誘いを断れば、ちょっとだけ燐は寂しそうな表情をした、しかし直ぐにいつもの調子に戻って颯爽と保健室を後にする。


燐を見送り、しばらくした後、ずるずると椅子にもたれ掛かった。

「ったく、なんであんなこと言ったんだ…」

いつもならしないような見栄をなぜ張ったのか


自問して答えに詰まる


「…らしくないな」


苦笑して、少し緩くなったコーヒーに口をつけた。

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