オペラへの「違和感」・後編
えっと、一応、前回に書いていた続きです。
話題は、オペラにおけるストーリーへの違和感ですね。
分かりやすい例として、『蝶々夫人』を挙げてみました。
さて、そんなところに、またプッチーニのオペラ『トゥーランドット』を見たんですね。
えー、重い話題は、ハナから避けようと思っていますので、以降も水彩画のように、カルクカルク流しますねー。
しかし、この『トゥーランドット』ちゅうのは、何ですかね。
この『大工と鬼六』(この童話知ってますか)みたいな話は。
こう言うのを見聞きすると、小林秀雄が『モーツァルト』という評論で述べていた極端な鑑賞法「上演されても目をつぶって聞く」とか、「声帯による振動も木管による振動も等価」とか、「台本の愚劣さ」なんて言葉に、うーんもっともであるなぁと納得してしまうんですが、どうでしょうかね。
特に台本の単純さについては、私はやはりオペラ全体についてもとても気になるところです。
例えばモーツァルトの『コジ・ファン・トッテ』なんかでも、あの台本の馬鹿馬鹿しさはどうしても気になりますね。あの台本で音楽のみを純粋に鑑賞するなんてことは、私はうまくできないんですが、どうなんでしょう。
かのベートーヴェンも、『コジ・ファン・トッテ』についてはそんなことおっしゃっていたようですね。
くだらない例えかも知れませんが、墨痕あざやかにすばらしい達筆で「馬鹿」と書いてあるお習字に、私たちは感心できるのだろうか、という気がするのですが、みなさまはどうお考えになりますでしょうか。
もっともそれは、いわゆるオペラ鑑賞における「文法」を、私が十分に知らないままの感想だとは、自分でも少々わかっておりますが……。
……うーん、そんなオペラへの違和感でありました。
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