論破を受け止めるバンパー

ディベート番組をエンターテイメント化できている人たちは優秀であると思う。その昔、NHKで真剣10代しゃべり場という、名前の通り10代の男女を集めた討論番組があったが、あれもあれで理想論と世間知らずゆえの暴論と異端気取りが溢れていて実に良かった。

ディベートは、自分が本当に思っていないことでも論を組み立てて主張しなければならんので、自分には全く向いていないのだけれど、論を組み立てていく過程を見るのは面白い。

反面、討論やらディベートには相手の話を受け止めて咀嚼し、瑕疵を突いたり疑問を問うことが必要であるにも関わらず、エンターテイメントの俎上に上がることで、相手の話を聞くよりも、俺の話を聞けとばかりに声高に叫んだり、相手の矛盾を探す遊戯になりがちな傾向があるのもまた事実であろう。

私生活で近親者や友人と言い合いになったことのある人は少なくないと思うが、基本的に互いの主張や己の正当化をしていると、相手との関係性は悪くなることの方が多いし、投げ合う言葉の意図がぼやけて絡まりやすくなる。悪くすれば言葉のみならず間柄までちぎれてしまう。

何度も書いていることだが、言葉は刃物で、誰かの意図を解くこともできれば、切り裂いて傷をつけてしまうこともある。相手と自分は育ってきた環境が違うからすれ違いはしょうがないという前提のもとで互いの刃物を向け合わないと、そこには殺伐とした景色が広がってしまう。

人に刃物を渡す時には刃を己側に向けて渡すように、初手から相手に尖った言葉は投げかけるべきではないように思うが、討論を言葉の格闘とするなら、奇襲もありなのか。バーリトゥードは何でもありとはいうが、殺し合いではないし、それなりのルールは欲しいよな。

SNSだと、面識のない相手に初手から否定や攻撃的な文言を投げつける人もいるけれど、あれに関しては通り魔みたいなものだし、異論や違和感を表明にするにしても、初手の挨拶やら礼儀はある程度は必要ではないか。

己の正当性のための論破なんて、本来は称賛されるべき物ではなく、自我の保護のための野良試合のような野蛮な行為。よく、日本は討論に向かない、論理ではなく情緒に寄っているからダメなんだという人がいるけれども、世界基準の公式ルールなんてないから、その国々ごとの、あるいは団体ごとの発展すればいいと思う。プロレスや格闘技だってルール微妙に違うしな。

話し合いが果たしあいになってしまいがちな時代。相手を論破しようという気持ちが前面に出すぎてしまうのはよろしくない。論旨を噛み砕き、己が論に瑕疵や足りぬ部分があるのならば、相手の話しから得た指摘で補修し、強固にしていければいいのだ。

論より証拠なんて言うけれど、証拠を固めるための論も必要不可避。だからこそ、相手の言葉や自分の言葉を受け止めるためにクッションやバンパーを作り上げる必要がある。

それってあなたの感想ですよね。そうだよ我思う故に我ありと言えるだけの余裕が、自分の論を否定されても、相手の言葉に面白みを見出せるような論破を受け止められるだけのバンパーを作っていけたらいいね。

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