わたあめをきりわける

悲しいことがあっても卒業写真のページは見ないタイプの人間だけれど、ある瞬間に湧き出す記憶の湖というものは私にも存在していて、音楽や匂いといった要因がその蓋を外す契機になりやすい。


恥の多い生涯ならまだしも、それを避けて隠遁するようなロングアンドワインディングロードになってしまっているが、それでも暗い夜の砂漠の焚き火に集まる旅人のように、私にも想いを交わした相手がいる。

その人と一緒に聴いた音楽がサブスクのおすすめプレイリストから流れてきたりすると、ウサギを追いかけて不思議の国に辿り着いたアリスのように記憶の国に連行されてしまう。

罪の記憶と積み上げてきた秒針に囚われた病身。生きることが罪ならば、それは懺悔と贖罪の旅であり、不毛の大地を無能な私が悔恨の思いで開墾していくべきだとは思う。こんな韻踏みに逃げずにはいられないような旅。

好きな人の好きな笑い方は、その人と繋いでいた掌が離れてしまっても好きなままだ。無表情で傷つけあった別離間際の痛みがあろうと、最後の一言すら電子の文面で届けられた末路であろうとも、笑い方と流れていた音楽を嫌いになることはない。

ふわふわとした、懐かしいわたあめのような記憶。現実逃避をしているのではなく、わたあめが現実を包み込み、そこに侵食していく。淡くてあまいわたあめ。

いつまでも、それに包まれていたいけれど、現世に流れる24の区切りは生者には等しくて、イリーガルな液剤や顆粒を使用していようと、ただれた情愛の檻に閉じこもろうともそれは変わらない。体感はどうあれ。

懐かしくて、離れたくない記憶を、泣きそうな顔で切り分けて、なんとか出口を作って、それが涙なのか、切り裂かれたわたあめの体液なのかわからない水分を纏いながら抜け出した先の現実。

わずかに指先にのこった、わたあめを口に含み、その甘さにまた胸がしめつけられる。流れていた音楽は次の曲に変わっている。私が知らない誰かの曲。

きっと、この曲も誰かにとってのわたあめになるのだろう。懐かしい映画も、これから公開されるドラマや映画も、露天のハンドメイドの歪なアクセサリーも、暗がりに瞬く星空でさえも。

私はたぶん、またいつかわたあめをきりわける。けれど、それはわたあめに包まれることができるという遠い約束のようなものでもある。現実が素晴らしいものでないとしても、戻らなければならないから、包まれては切り開き、やがてまた包まれていくこのサイクル。

それを追憶と名づけてしまうには、あまりにも甘さが残りすぎるから、わたあめをわたあめとして、私は過ごしていきたいのだろう。

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