雨に掛ける毛布を織るように

毎日うんざりするほど悲惨なニュースが流されている。主として誰が誰に傷つけられたとか、殺められたとかその類のニュース。意図的に集めて流しているのではないかとすら思ってしまう。

自分は親に対して質問したことはないが、これだけ人が殺められるニュースを流せば、子供が親に対して、なぜ人を傷つけてはいけないのか、殺めてはならんのかという問いは出てくるだろう。

自分が姪から問われたら、なんと答えるだろうか。杓子定規に人を傷つけてはいかんからとは言わない気がする。人を傷つけていいのは、自分も傷つけられる覚悟があるものだけだが近いか。

それだと覚悟や理由があれば、暴力を肯定することになるだろう。だから、自分が傷つきたくないし傷つけたくもないという逃げのようなマインドが一番正直な気持ちであり、叔父はそう考えるがと話すくらいしか思いつかない。

いついかなるときも暴力がいかんとは、私は思えない。集団で1人を追い詰めるようなやりかたをする人に対して、己が心身を守るための力を振るうことは自衛であろう。だが、、、それが取り返しもつかない相手への、なにより自分への傷になってしまうことはある。

人は傷付かずには優しくなれないというコピーがある。誰かの痛みへの想像力を、経験則からインスピレーションするということだろう。では、傷つけずには優しくなれないかと言えば、それはそうでもない気がしている。

ただ、実際の話、優しさの定義が広すぎる上に、他人へのシンパシーや助けを出す人間を利用して、都合よく扱う人が少なくないのも現実としてある。

悲しいニュースが多い中で、単独で世界の悲しみを無くすことに立ち向かうのは難しい。また単独で抱える悲しみが溢れてしまったら、その悲しみの水位は増えていき、やがて新しいノアを求めてしまうことになる。悲しみがあるから世界を否定し、自分も周囲も壊してしまいたくなる人も生まれてしまう。

できることは、小さな幸せ、、、いや、小さな楽しみを集めること。悲しみの雨に対して、傘がなくとも、衣類を解いて、雨に掛ける毛布を織るような小さな喜びをつくること。

砂漠に樹木を植えるように、飢えた人にパンとミルクを差し出すように、日々に笑いやふれあうことを、ちいさくちいさくほどいては織り込むことが、いつか悲しみの増量を減らしていけるような気がする。

こんなもんは綺麗事、いやキレイゴトか。綺麗事にすら届かないカタカナのバッタものなのかもしれない。

それでも、なんで人を傷つけてはいけないのという問いに対して、その場しのぎであっても、誰かを傷つけて喜ぶよりは、好きな人を笑わせたり、楽しい音に時間を委ねることができなくなるからだと、メリット・デメリット以外の選択肢を提示できたらなと思う。

雨はやがてあがり、また誰かの元にやってくる。濡れた毛布の重みは楽しいもんじゃない。それでも、雨から誰かを庇うように毛布を編み込む地味でわかりにくい喜びの種を、ちびすけたちに私は提示したいのだ。

やがて誰かが傘を作るかもしれない。濡れやすい毛布なんていやがられる日が来るのかもしれない。

それでも、雨は毛布で少しでも軽くなるのなら、そんな馬鹿げた提案を私はしたいのだ。

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