欲しいのはあなた

あなたが私の全てだと歌う曲がある。欠損を前提に組み込まれるプログラムは好ましくないのと同様に、強すぎる思いを私はあまり受け入れられない。

心配しなくても、今はそんなことを言われる相手はいないし、それはこれからもそうなのだとは思うが、とはいえ全てを委ねられたり、委ねるよりは、緩やかに大切に思い合う時間があり、円と縁が重なり合う領域で時間をシェアできるくらいの関係性の方が好きだ。

想いの強さは強弱はあっても勝ち負けはなく、だから俗に言う惚れたら負けみたいな考え方は嫌いだし、ましてや自分より相手の方が好きの感情が大きいと思い込んだ瞬間に、相手をぞんざいに扱う人は多いような気がする。

数値化できる類のものではないし、当然可視化されないから、見えざる神の手のようなアンバランスさを抱えて、ゆらゆら揺れながら求め合う時間から、そばにいる時間の静かな安定と否定を伴わぬ適度な無関心に至るまでの歳月は少なくはなかろう。理想は理想で、そうはうまくいくわけがない。

相手の存在全てを欲しがるなんてのは、その重さを知らない、恋に恋焦がれ故意に泣く時代の恋人たちの罹患する病ではないか。中島らもが恋は世界で最も美しい病であると紹介した言葉のように、ある種の熱病ではあるのだと考える。

など、惰眠を貪ることでしか鬱屈を堪えることができなくなった老骨は夢のない話しかできぬ呪いに掛かっているだけだというのもまた真実。キャッキャウフフで始まった物語の船が深淵にまでたどり着くこともあるし、一概に一般化できるものでもないか。

思い込みは力になるし、推進力になりえるが、一方でな漕ぎ出した方向を見誤れば危険も伴うしなということが言いたいのかも知らん。

歌の文句にありがちな、あなたの全てが欲しいみたいなものも、冒頭に書いた全てを捧げるみたいな価値観だよな。そういう想いの強さを肯定しきらないのは、それこそ自分の瑕疵であり欠落か。

とかね、こういう理屈でなく、感情全てが相手を求めて、相手も全力でぶつかるみたいなもの経験していれば考え方も変わったのかな。いまさらどうなるものでもないし、記述してきた考え方が破綻しているとは思わないけど。

人は所有物ではないし、結婚でなければ関係性は契約で縛られるものじゃないから、欲しいなんて感覚には違和感があるけど、なんか一緒にいたいななんて思春期みたいな感覚が死ぬまでにもう1回でも生まれたら、今回書いた文章の真逆の考えになったりするのかな?

それはそれで面白そうだし、さてどうなのかね。欲しいとしたら、相手との時間だろうけれどね。

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