当たり前じゃねえからな

私は毎日、風呂(湯船)に入る。これは狭い部屋に住んでいた頃から変わらないし、もっといえば実家にいた頃から変わらない習慣である。しかし、烏の行水と揶揄されるほど滞在時間は長くはなく、体を洗ったら暑い湯に浸って(45℃)疲労感を飛ばす程度で上がってしまう。

風呂に入ることが苦痛でないことは私にとっては当たり前だから、自分にとっての普通にしてしまうけれど、なといって他の人が風呂に入るのが嫌いだったり、シャワーで済ますことが当たり前でないとは思わない。

誰にでも共通する普通や当たり前なことなんて、本当にごく小さな領域でしかないのに、誰かが用意するその線引きを疑問なく受け入れてしまえる人が少なからず存在することが怖い。異端者を燃やしたがる気質のありこの国ではなおさら。

しかし、逆に最近では輸入物の人権感覚とやらで、他人に抱く悪感情や個人の好悪まで統制しようとする傾向が政治家だけでなく、フェミニストやら人権派と名乗る人の中で湧き上がっているようで、それもとても気持ち悪い現象だと思う。

普遍を手に入れたら、悩むことは少なくなるかもしれないが、そんなものは私の中では幻で、悩まなくなったから、それで物事がうまくいったり、幸せになれるかといえばきっとそうではないのだ。

ありもしない普通のガイドラインみたいなものに悩まされるくらいなら、開き直って人生を謳歌してもいいのだろう。若い時分には、そんな気分にはならず、時間をうめてしまったけれど、その日を迎えるまでは、そんな気持ちで生きられたらいい。イキらずに、淡々と好きを集めるように。

今時の若いものはなんて言い方は、ギリシャ時代の壁にも残っているらしいけれど、その時代のスタンダードというものは変わっていく。エヴァーグリーンなものもないではないのだろうが、それだって変わっていくのだろう。

変わらない物が欲しいのか、変わっていくものを捕まえ続けたいのか、誰かに用意してもらいたいのかは人それぞれだろうけれど、個人的には両方あるからそれぞれが際立つのだろうし、それを無理に選ぶ必要はないのかな。

常識も良識も普遍のものではないから、自分の中に規範を作っては改訂し、マイナーチェンジを続けていけたらいい。それだって、あたりまえなんかじゃなく、あくまでも自分の立ち位置の確立でしかないのだけれど。

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