視点がひねくれていますね

当たり前のように太陽が昇って沈むから忘れがちだけれど、生きていることに意味はあまりない。死ぬまでの暇潰しという言葉の方が、なんだかしっくりくるような気がしている。

昔は前向きな真面目ちゃんだったので、田舎のヤンキー同級生には疎まれた。見下しやがってみたいなことを言われたが、そんなつもりはなくても、相手にそう感じさせた私側にもそれなりの問題はあったのだろう。

劣等感で武装したひきこもりが、外部に対して無害かと言うと、決してそんなことはなく、ルサンチマンこじらせた刃が他人から見下していると解釈されてもおかしくはない。

ぎゃーぎゃ、ヘラヘラしやがってと思ったこともあるし、そういう気持ちは漏れ出るものだ。いまだって、あの類の周囲の迷惑を我欲で乗り越える奴は嫌いだが、彼らには彼らのロジックがあったのに、知ろうともせず、色眼鏡で見ていた俺も悪いよ。


アリとキリギリスという童話では、働き者のアリさんが報われるというか生き延びて、享楽的なキリギリスせんは死に絶えましたみたいなロジックで話が進むけれど、一度も手を差し伸べずにざまあと見捨てるアリさんの残酷さの方が俺は怖かった。

それは自治州的な鬼ヶ島に正義の名の下にカチコミを掛けて、最終的に宝をおのり己のものにしてしまう桃太郎の身勝手さや剥き出しにされた暴力性に怯えたことに似ているのかもしれない。

絶対的な正しさとか、ゆるぎない思想みたいなものは魅力的だし、わかりやすいと思うが、そう言った物事の裏には大抵は誰かの意図やら思惑があるし、それを加味しても選ぶならいいけど、鵜呑みで信じるには私はひねくれものすぎた。

だから、ミソジニーだのなんだの連呼する人のミサンドリーやヘイトを無視して語られるフェミニズム論は信じないし、一方の角度だけの宗教論も信じない。考えて咀嚼して、消化してからでないと判断できないことがほとんどだ。

ひねくれたくてひねくれているつもりも、賢しげに語るつもりもなく、ただただ自分の頭で考えたいだけなんだが、まあそれが協調性にも成長性にも欠ける理由なんだろう。直したけりゃ直したけりゃだろうし、捨てたくはない部分。

君はひねくれすぎて、逆にまっすぐに見えるねトリックアートみたいだと言ってくれたあの子は今も元気でいるのだろうか。

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