トロワ・ドゥーズ・メルド

bulimia in recovery

トロワ・ドゥーズ・メルド

bulimia in recovery

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2020年4月12日

やるべきことをやらなければならない焦りがあるばかりで生産性がまるでない日々を一か月ほど過ごしている。コロナウイルスによる現在の状況によって生じる精神面の苦痛をケアするためのさまざまなライフハックを読むと、単純だが創造性のある作業を行うことや、自身の感情を紙に書き出してみること、知り合いと頻繁に連絡を取り合うこと、生活リズムを乱さないことなどが推奨されている。しかしながらどうにもそれらのどれに取り組むのもおっくうで比較的趣味に合いそうなTV番組をタイムテーブルからなんとかして探

    • 日記_レジ袋いりますか?とネタバレ

      喫煙がかくも規制されることに対する違和感や、差別撤廃の声の透明すぎる感じ、ネタバレしておいたほうが安心で手っ取り早いという考え方の無味乾燥とした空気、などの、この煮え切らなさ。 大学研究者やジャーナリストのツイッター見て考えた気になるのもつまらないけれど未知の視座を一般市民に与えてくれるのが批評を生業とする人々の一つの役割であるのならばうまいこと恩恵にあやかるのもまたよしといえるか。 私が考えているあるいは感化されているのは身体の共有と私物化のことであり、迷惑をかけないよ

      • 日記

        なるべく何もしないように毎日過ごしている。なるべく責任を重く感じないよう、なるべーく体を動かさないようにする。体を動かしたり予定を立てようとすると泣けてくる。

        • 日記_達成感

          達成感を得ないといけないという考えに支配されているなあと思う。何かを成し遂げないと意味がないという大きな意味を批判的に捉えることにはそれなりに意識が向いていると思うけれど、そのカウンターパートとして、日常を小さな達成感で満たそうという考え、それ自体不毛な感じがする。自分をゆるすために達成感を積み重ねていこうという方向性からは降りられていないというか。逃走線――みたいな言葉が『デッドライン』にあったように記憶しているが、ピッとあらぬ方向へ線を引くイメージは割とクリアだ。 歯を

          不安_日記

          「何も感じていないように感じる」から「なにかが不安である」という風に変化しているように思われる。でも気持ちを現在進行形で感じることは感じるための落ち着いた部分がひつようであり、その部分はつねに沈着冷静に見守る役割を担っている。でも怒ったりなんだりというのは気持ちの全体で感じないと抱えきれないように思われれるのでそのような鳥瞰的なものがいては怒りについて理解できないようにも思われる。怒りの瞬間は我を忘れた感覚があり、その後時間を置くと徐々に痛みを伴いながら俯瞰的な部分がかたちづ

          日記

          人が自分のことを悪く思っているだろうという感覚はゆがみがわかりやすいので簡単だけれどもっと、当たり前で気づかないほどの癖にまだ気が付いていない、ように思われる。 鉛の重さを知らなくても、鉛のように重いという比喩を使えるのが面白い。 治療のプレッシャーに疲れてしまった。色々聞かれるし、いろいろ話さなきゃならないのがしんどくて、でもそれよりももっと、治ろうとする強い意志を「持ち続けなければならない」ことのほうで、症状が悪化しているように思う。「少しずつ」という言葉が治らないで

          日記

          夕方に起きる。少し書き物をする。人と会う。夜の寺と解体間近の建築物を見物する。土砂降りの雨を駅前の高架下からふたりで眺める。虫が柱から柱へを移動するのを見る。けがをみる。ご飯を食べる。信じることと裏切られることの話をネットニュースで見聞きする。自分の別の側面を受け入れられないために、自分にいつも裏切られている感じがする。眠れない。だから?別に眠らない。でも、眠らないのは悲しい。夜よりも朝が怖い。朝食がいやだ。空腹のあまり目が覚める。何かのためなら死ねる、という言葉なんて簡単に

          日記

          特に何とも思わないようにしているけれど。昨日は久々に午前中から起きていたので化粧をして出かけようとしたら苦しくなって過食嘔吐した。11時から6時までした。その前はすこしだけ自分の書いたものを読み返したり予定の整理をしていた、久々にアマヤドリさんのストレッチもしてすっきりした気分でもいたのだがしだいに衝動にまけていった。日中は主にサンドリを聴いていた。なんだか、暑いと少し食べただけで太った感じがしているんじゃないかな、と思う。気分によって行動が制限されるのがいらいらする。いらい

          日記

          夜眠れなかったので東京物語と万引き家族を観た。名作と聞いていたからどういうところが魅力的なのかなーと考えながら観ていた。くしくもどちらもおばあちゃんが亡くなる話だった。東京物語はおじいちゃんがずっとにこにこしているのにずっと悲しい気持ちにさせられた。有事に大人が薄情に見える経験は自分にもある。先輩が死んだときに話を聞いた母がすぐさま御霊前を用意してくれて人が死んでんのに金かよと思ったのを思い出す。目線より低い位置のカメラが、遠近にいる座っている複数の人を被らないよう真横から収

          日記(暗い)

          電車に乗っているとだんだん怖くなってくる。目的地の最寄り駅に着いたものの、胸が重く苦しくてうまく歩けない。予定時間の5分前になる。3分、2分・・・0分になり、また1、2、と時間が過ぎていくのをわかっていながら全く急ぐことができない。階段を一歩ずつ上り地上出口に出たころには15分を過ぎていて、その時にはもう治療を続けるのをやめようと決めた。通院治療を受けるためには、予約という最低限の約束事を守る義務を果たせないできなら、やめてほかを探すしかない。電話を入れたい。だがスマホには海

          日記

          13時に起床。昨日の夕飯の残りのおかずと豆腐を食べたら具合がわくるなったのでソファーでゆっくりする。シーツを洗濯する。過食嘔吐のことを考える。16時頃、家人が出かけたので宅配を頼む。過食嘔吐。18時に家人が帰ってくる。20時頃夕食。タイ料理。少し吐く。横トリの予約をする。21時半頃駅前のマックへ。友人の誘いを断る。過食嘔吐のことを考える。 なんとなく、頭がぼんやりとしていて、体に力が入らない感じがする。もやがかかっていて、なにかをしていても、うまくしゅうちゅうできない。呼吸

          日記

          気分の落ち込みと症状の悪化の相関をちゃんと見たほうがいい気がする。なんとなく、比例しているようには感じるけど、そうでない日もある気がするし、そこが重要な(気もする)。 勉強にひと段落ついたところで次にいきたいのだが全然身が入らない。猫と一緒に眠ったりする。 何か目標を立ててそれを淡々とこなす、それを繰り返す、というのが生活のうえでなにごとにもあると思うのだけど、それをしよう、とすることがすでに完璧主義的なのかなー。目標を下げて下げて最低限にしてもまだ挫折する。結局標準年数

          日記

          過食嘔吐がおわったと、高円寺へ向かう。眠くて電車で寝ていたら乗り換えの駅を過ぎてしまっていたらしい。戻って別ルートでたどり着く。あまりの空腹にたまらず駅前の喫茶でサンドイッチを食す。食べていると妙にマーガリンが多いように感じられる。一口食べるごとに、それが腹にたまって脂肪になってゆくように感じられる。嘔吐の衝動がうずくのを感じる。 人に会うために最低限取り繕わねばならない身なりや言動を用意することができないので、困ったときほど助けを求められない。 外出先で衝動が来た時どう

          日記

          日本摂食障害協会のアンケートに答えた。3-5月よりは生活リズムが良くなっているのを改めて振り返るよい機会になった。 これね。 最近、過食衝動が起こっているときの感じを「いらいらする」と表現しているけれど、こんな風に捉えたことが今まであったっけ?自分は怒ることがほんとうに苦手で、あきらめてしまうことの方が多かったけれど。エネルギーがふつふつとたまっているのを感じる。 本当の問題について考える。(分不相応な)裕福さのことなど。 それに加えて、今の悪い気持ちについて考えてお

          日記

          自分が何を感じているのかはさっぱりわからないが呼吸が浅いとか背中がこわばって胃が重たくなって猫背になったままもどらないとか、身体感覚はよくわかる。だからそちらに意識を向けてみて、あえて逆のことをやってみる。深呼吸、力を抜いて、胸を張る。1秒、つづいて、3秒にまでのばしてみる。5秒、8秒、20秒になるまでやってみる。しんどい。1秒をやる。すこし簡単に感じられる。それでも歩くのがつらい。倒れこみそう。いちど、力を抜いて、入れて、みる。うまくいかない。うまくいかなかった。 明日は

          日記

          むかむかとする、いまいち自分が何を考えているのかわからない、わからないのだなーと思うことにする、という練習をする。体系だった練習をすることに慣れていないのを知っている、人の行動の至らなさを責めるのではなく気遣いにだけ焦点をあてて感謝する、ことによっていくらか人を傷つけたいと思う衝動を回避できる。 言葉は惰性で使うことができて、これそれと思う、といってもよいし、これそれと考える、これこれという気持ち、といってもよくて、しばしば語感で選んでしまうのだけれどこれらはたがいに代替不