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コンテンツとタイパの再定義を通じて、アニメ制作の再構築まで




動機

特に映画や音楽というジャンルにおいて、作品を「コンテンツ」と呼ぶことが増えている。その傾向は月額課金制のサービス(以下、サブスクと表記)の普及につれて高まっているように感じる。また2020年代には、「タイパ」という時間消費における効率性を指す言葉もよく見られるようになった。
けれど、ぼくはこの「コンテンツ」「タイパ」という言葉にもやっとする。このnoteは、そのもやもやの正体を考えたうえで、どうすればもやもやを晴らせるかを検討するものである。
結論を言えば、作品の中身としてのコンテンツとその数を求めるパフォーマンスへの志向から脱却するためには、作品体験を取り戻すための試みが必要である。その試みについては、アニメという領域における2023年時点でのぼくのアイデアを書き散らかしているが、具体的なアクションとしての結論は出ていないため「(発端)」としている。これは自分自身のミッションを遂行するうえで途中でふり返るための道標のような位置付けとする予定であり、かなり抽象的な文章にもなっているためご了承いただきたい。

なお、ここでの作品やコンテンツとは特に断りが無い限りは映像作品を指すが、これはぼくは映画やアニメ文化が好きだからであって、読んでるみなさんの好きなジャンルに適宜読み替えてもらっても構わない。

コンテンツとパフォーマンスの再定義

作品に触れる習慣が変わった

そもそも、「コンテンツ」とは内容や中身を指す英単語の「content」に 由来する言葉であるが、今日では以下の意味を指すことが多い。

コンテンツとは、ウェブサイトやアプリケーション、メディアなどにおいて、情報や知識を伝えるために提供される文章、画像、音声、動画などの要素の総称である。

https://www.weblio.jp/content/コンテンツ(2023年6月14日更新)

つまり映画でいえば、メディア(劇場、テレビ、DVD、サブスク)に対応した映像そのものが「コンテンツ」といえる。
コンテンツという言葉を見る機会は、サブスクの拡大とともに多くなったと感じている。多くの配信サービスは、月若しくは年単位での定額制により視聴できるサブスクリプションの方式であり、期間中にはサービス内のコンテンツに好きなだけ触れることができる。
この「一定の期間に対して一定のコストを払う」という枠組みの中で出てきた言葉が「タイパ」だ。「タイパ」、つまりタイムパフォーマンスは、かけた時間に対してどれだけのコンテンツに触れられているか、という尺度で表現されていると理解している。要するに「コンテンツ数/時間」が高ければ高いほど、タイパは高い。
時間は有限だ。でもコンテンツにはより多く触れたい。触れなければ、話題についていけない。だからこそ、作品を本来の再生速度(1.0倍)から、速度を早めて1.25倍、1.5倍で視聴するという考え方も出てくる。そしてそれもサブスクやタイパ概念の拡がりに比例して、習慣化しつつある。タイパの概念はもはや映像作品という分野に留まらず様々な場面にも派生していて、たとえば、飲食店のテイクアウトを使う際にも、店舗で注文するのではなく事前にオンラインで注文することで、店舗での待ち時間を短縮するという習慣にも結びつく。

話が散らかってきたためコンテンツの話題に戻すが、サブスクが普及する以前、コンテンツという言葉が今日の意味で氾濫する以前に、ぼくらはどのように作品に触れていたかを思い出したい。
たとえばアニメを観るときには、テレビで最新話が放送されるのを楽しみにしつつ、放送に待ち合うように用事を済ませて、そして作品を観ていた。放送後には、学校で共通の趣味を持つ友達と「昨日の観た?」トークをしていた。もうちょっとディープに楽しみを掘り下げるならば、雑誌などにアクセスすることで関連情報にアクセスしていた。
たとえにおける時代設定がかなり古いが、何が言いたいかというと、ぼくらは作品に触れるときにその中身だけを観たり聴いたりするわけではないということだ。ポイントは2つ。①作品に触れるには文脈があること、②作品に触れる時間はコンテンツそのものの時間以上にあったこと、だ。

作品にまつわる体験

個人的な体験を例にして、作品にまつわる体験を共有したい。

2023年7月にスタジオジブリ制作・宮﨑駿監督最新作「君たちはどう生きるか」が公開された。宮﨑駿は2013年に公開された「風立ちぬ」を最後に、長編映画制作からの引退を宣言したが、その後これを撤回し、10年ぶりに新作が公開され注目を受けた。更に、本作の公開に際して宣伝が一切行われなかったということも話題となった。ジブリ作品は、現在の映画広告宣伝の走りとも言えるほどに大規模に宣伝をかけることでも有名だからだ。
ぼくは宮﨑駿のファンだ。だからこそ最新作も当然待ちに待ったわけだが、宣伝が無いからこそ更に期待と想像が膨らんだし、それは誰にも邪魔されたくなかった。公開日は金曜日で仕事があったため勤務後に劇場に向かったが、向かう途中に劇場周辺でのネタバレトークを聞いてしまうおそれもあるため、シアターに入るまでイヤホンをつけていたし、もちろん公開当日にはSNSにも触れなかった。
上映までの間、予告編の作品数が増えるにつれてぼくの緊張感は増していった。本編が始まってからは、映像表現の豊かさと展開に対する期待により高揚した。この感覚は今もなお瑞瑞しく記憶している。
ここで言いたかったのは、作品に辿り着くまでの行動を含めた文脈があるということであり、この文脈を含めて「体験」をしたということだ。

もう一つ大事な要素が時間だ。作品に触れる時間はコンテンツそのものよりも長かったと述べた。待つ時間や考える時間、移動時間など、作品に触れるまでの時間は、特に劇場というメディアでの体験では絶対に必要だ。作品を鑑賞してからも、帰り道にどんな話だったかを思い出したり、人と話すことでリフレインされる。
そういえば、以前時間と作品との関係についてnoteでまとめたことがある。

『100日後に死ぬワニ』(作・きくちゆうき)という漫画をご存知だろうか。Twitter(現・X)で連載されていた漫画で、毎日投稿されていた。主人公のワニくんが日常生活を送るというストーリーを4コマ漫画にしたもので、全部で100話ある。1話で描くのはワニくんの一日であり、毎日連載されていた。つまり読者はワニくんと100日間過ごした。連載形式がリアルタイム的であるというギミックも面白いが、読者が擬似的にワニくんと日常を過ごすという感覚が日々育まれていった。ネタバレにはなるが、ワニくんは100話で突然死ぬ。そのラストは予想はされど、ショッキングだったのを覚えている。
この連載は、終了後に炎上した。最終話が公開された直後に、公式からグッズ販売などの商業的展開が発表された。なんというか、日常を共に過ごしたワニくんの死を利用するような不謹慎さに対し、読者は怒った。読者が過ごした100日の間には、漫画を読む時間に加えて反芻する時間も少なからず存在したと思う。心の中にワニくんは存在したのだ。

作品においてコンテンツは貧しい

「君たちはどう生きるか」「100日後に死ぬワニ」の2作にまつわる体験を取り上げたが、これらの作品のコンテンツ(中身そのものという意味でこの語を用いている)それ自体を高く評価しているわけではない。「好きな作品は?」とオープンクエスチョンで突然尋ねられたら、きっと他の作品を挙げてしまう。
だがここで例として挙げたのは、コンテンツそのものに対する評価以上に、体験が印象的だからだ。そしてぼくはこの体験こそが作品において最も贅沢な部分だと思っている。
逆に言うとコンテンツは、前後にある体験という贅沢な部分を取り除いたものだから、貧しい。タイパを追い求めてコンテンツだけ効率的に触れようとするのは、エサを摂取するのと同じだ。ぼくらが求めていたものはそういうものだったのか。

単純な暇つぶしを目的とするならば、コンテンツに溢れている今日の環境は、理想的なのかもしれない。けれど、そうして観た作品のことは記憶に残らない。「観た」という事実はもちろん記憶しているが(学校で必修または選択科目の単位取得をするような意味で「履修」とも表現される)、何が面白かったかとか、ここは好みではないとか、そういった感情は心の中の引き出しには残らない。
昨今、作品の魅力を有識者が言語化してくれる動画、要するに解説コンテンツがウケているわけだが、履修科目を解説で補完してくれる存在だから感謝されるのだろう ─── 単純な作品鑑賞に加えて解説動画も見るのだから、結局タイパは悪いのではないかと思ってしまうが。

再定義

ここでそもそも論になってしまうが、タイパとはコスパ、つまりコストパフォーマンスから派生した言葉である。
コスパは、かけた費用に対して価値が高いものを得るという意味であると理解している。食事のシーンで用いる場合には、料金の割に美味しいというのがコスパが高い状態あるいは評価だろう。ここで重要なのは、コストパフォーマンスにおける「パフォーマンス」とは、前述のように価値や美味しさといった質を指す。しかし、タイパにおける「パフォーマンス」とは、限られた期間にどれだけのコンテンツに触れたかという数の多さを指すことが多い。つまり、タイパはコスパから派生した言葉であるものの、パフォーマンスの定義がすり替わっている。
前述した2作での体験について取り上げたのは、体験の質が高いと感じたからであり、特別感があるからだ。数の多寡は問題にしていない。

「コンテンツ」という言葉に対するもやもや感はここにある。
サブスクの普及に伴い、作品がコンテンツと表現されることが増えた。それは、文字通り作品の中身のみが配信され観客に届くという構図が定着したからだ。サブスクは、その多くが定額制であるため、かけた時間に対して多くのコンテンツに触れられればお得である。これがタイパという概念の最も簡素化した捉え方だ。タイパという概念は更に習慣化、派生し、もはや「暇は悪」という観念を形成するまでになっている。

ぼくはこれを脱却させたい。これは、作品の内容(おもしろいかどうか)や観客の姿勢を批判するものではない。この10年で貧しくなってしまった「コンテンツ」や「パフォーマンス」という言葉を再定義できないものかと思っている。定義を量でなく質の方に寄せる形とすることで、観客も質を求められるような、つまり作品の前後の時間や体験を志向する考え方を取り戻せないかという課題感である。
体験を取り戻すにはどうすればいいのか。

再定義に向けた試み(発端)

アニメ産業にまつわる懸念

冒頭にも書いたように、ぼくはアニメが好きだ。学生の頃に比べると鑑賞する数こそめっぽう減ったが、今でも1~2クールに1作は最新作を視聴しているし、過去作を観たり買い物に行ったりもしている。また、ぼくはアニメ制作に関わっている。制作といっても制作会社をやっているとか、フリーランスで絵描きをしているというわけではなく、「Section2」という自主制作団体で活動している。2023年8月現在、規模は20名ほどのチームで、オンラインで集まったイラストレーターやプロのCGアニメーターも参加してくれているが、アニメーション1作を制作中だ。その1作については、ぼくは2013年から企画に入っているので、かれこれ10年ほどの付き合いになる。だから、鑑賞する数や時間は減ったが、アニメに関する体験は今もできている。

そんなぼくには、アニメ産業にまつわる懸念がある。
一つはアニメの作り手側の問題である。それは何かというと、アニメの基本的な作り方がおそらく何十年も変わっていないことと(良く表現すれば成熟している)、職人芸に頼りきっているということである。要求される技術は高い一方で、産業としての生産性は高くはなく、ゆえに作り手に対するリターンは非常に少ない(※作り手の問題は一般的に普及した議論であるためこれ以上は触れない)。
もう一つはアニメの受け手側の問題だが、それはこのnoteで述べてきた観客を取り巻く環境と概念の変化である。観客はコンテンツを浴びるだけ浴びる、という意識が高くなっている。
この構図を平たくまとめると、作り手側の環境は厳しい中で、受け手側はより多くのコンテンツの量産を求めるということである。受け手はコンテンツそのものしか接しないし、一定期間のうちに触れるコンテンツ数が多くなるため、コンテンツ一つあたりにかける時間(接地面)はどんどん小さくなっていく。
日本のアニメ産業の特徴として、メディアミックスという手法がある。アニメ作品を世に展開するにあたり、映像の放送や配信だけでなく、関連書籍や玩具を出したり、主題歌やサントラを出しつつライブやコンサートを催したりしている。映像制作とそのリリースだけでなく他の業界とも連携することで、産業圏を大きくし売上高を増やしてきた。業界もファンとの接地面を増やしコミュニケーションをする努力をしてきたと言い換えることもできるが、ファンもその接地面を通じて作品への理解を深めてきた。
サブスクの普及によって、作品に触れるファンの数は増えているから接地面の数も多くなっていると思うが、表面的な接点が増えるばかりであるから、一人あたりの接地面は小さくなっている。なんだか貧しいと思う。

受け手とコンテンツとの「接地面」の変化

前述したように、アニメ産業における作り手を取り巻く環境は過酷であるが、SNSによってその事実を知るアニメファンは増えていると思う。しかし、それも見出しがタイムラインを流れることで「知っている」ものであって、実態を承知しているかというと疑問である。SNSはとにかく情報が流れるメディアであるから、みんなすぐに忘却する。

「ファンとしてはサブスクでアニメいっぱい見られるのは嬉しいけど、アニメ現場が厳しいことをSNSのおかげで表面的には知っているから別に作りたいとは思わないよね」という空気感が固定化されているような気がする。ファンはアニメの作り手の顔を特に意識することがなくなる。だから、作り手と受け手とのギャップがより広がり、深まってしまうのではないかとぼくは懸念している。
このままではアニメ文化は持続しない。

体験による接続

前述したように、ぼくは細々ながらアニメ制作に10年ほど関わっている。紆余曲折はあったもののなぜこれだけ続けられているのかと問われれば、面白いからだ。制作を通じて、物語を想像したり、効果的な演出について考えたり、絵としてアウトプットする仕組みを体感できたりしている。アニメに関わる体験の中で、最も贅沢なものであると思っている。
もちろん、プロの業界が面白さ一辺倒のものではないことは承知している。プロの苦労を理解できていないと思う。
いやしかし、もしかしたら、今くらいの関係性が一番贅沢なのかもしれない。つまり、アニメの受け手であり作り手でもある、という存在だ。

受け手と作り手との関係性の再構築

受け手としてアニメコンテンツ(あえてそう表現する)を享受しつつ、作り手としてアニメの仕組みに触れることで作品理解をより深めることができる。これまでは受け手と作り手という二項対立的であった関係性を、アニメ制作という体験によって接続することで、もうちょっとゆるい関係性に再構築したい。

さて、「で、どうするんだい」という問いに対しては、具体的なアクションは検討できていないため答えることはできない。しかし、たとえば、ファンも作り手として参加できる形態はあってもいいと思うし、プロになるにもより会社員的な一般性があってもいいと思う(正社員登用ということではなくて、誰でもなれるというニュアンスである)。ただ、業界に入って内側から草の根で取り組んでいく程度のことしかできないかもしれない。
何にせよ言いたいのは、アニメや制作者、ファンを豊かにするためにも、作り手として参加するための接地面を大きくする方法を模索する必要があるということである。作り手と受け手とのギャップは、アニメ文化の滅びを早めるものだから。

結び

このnoteは、2023年8月に書いたが、大半は通勤時間に電車の中で書いていた。通勤時間に書く理由は、電車に乗っている時間は基本的には暇であって、何もしないのはもったいないからだ。この理屈づけはタイパ概念そのものだ。そのくらいには、ぼくも一般社会と同様にこの概念に侵されていると思う。なかなか仕上げることができなかったが、このお盆期間は自分の時間をかなり確保できていたため、さながら夏休みの自由研究というか読書感想文というか、そんな気持ちで書くことができた。
この夏休みは、自分の時間を確保するということの大切さを改めて感じた。一日という限られた時間の中に、仕事やニュース、SNS、その他生命維持に必要な諸活動というコンテンツを詰め込めば詰め込むほど、忙しいと感じる(心を亡くすと書いて「忙」だから、感じるという表現は適切ではないかもしれない)。しかしよく考えてみると、それらのコンテンツには詰め込む価値があるのかという疑問が生じた。だから、夏休みにはその習慣を捨てた。自分の時間を確保すると記したが、物理的な時間というよりも、リズムと表現した方がいいかもしれない。起床後や就寝前に何もしない時間を意識的に作ったが、そのおかげで頭の中はかなり整理できたと思うし、ゆえにこのnoteも仕上げられたと思う。
最近は不必要なコンテンツを無意識に受け続けることに慣れすぎてしまった気がする。自分で意識的に体験するように心掛けたいと思った夏休みだった。

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