校舎も教室もない学校

 いま、ぼくの通う学校には、学校がない。
 パソコンの中の学校にぼくは転校した。

 ぼくは学校が大嫌いだった。毎日朝早くに起きて、あんまり仲良くもない同級生と一緒に同じ色ののランドセルを背負って、蟻の行進みたいに通学路を歩くのはとにかく嫌いだった。ちくちくする木製の椅子に座るのも、キュッキュッと鳴る廊下も嫌いだった。
 友達はいた。ユウジ、ショーマ、他にもたくさん。親友なんて呼ぶようなやつはいなかったけれど、仲いい友達は両手で数え切れないくらいいた。退屈な勉強は嫌いでも、休み時間にゲームの話とかマンガの話をするのが楽しかった。低学年のときの太田先生はお爺さんみたいで好きじゃなかったけれど、三年生からの杉下先生は面白くて嫌いじゃなかった。
 学校は嫌いでも、友達と一緒にいることは好きだった。勉強は嫌いでも、先生はあんまり嫌いじゃなかった。でも、ぼくは転校することになった。みんなにお別れとかはしなかった。けど、幼稚園から一緒だったユウジにだけは最後にお別れが言えた。悲しくなんてない。だってユウジとはゲームで一緒に遊べるし、チャットを使えばいつでも話ができる。なのに、ユウジは泣いていた。男なのに、転校するのはユウジじゃないのに。
 ぼくは泣かなかった。ウソじゃない、本当に泣いていない。
 だって、ぼくは転校してからもずっと家にいたから。

 転校はもっと悲しいと思っていた。でも全然悲しくなかった。この先、一生会えないなんてありえない。スマホは誰でも持ってるし、新幹線や飛行機だって毎日動いている。お金はかかるけどお父さんやお母さんに言えばなんとかなるはずだから。だから日本のどこにいても別にぼくは変わらないし、さみしくなんてない。
 お父さんとお母さんのいる家からおばあちゃんの家に住むようになったのは転校して、夏休みに入ってからだった。
「アオ、おばあちゃんの家から学校に通ってみないか」
 お父さんはファミレスでハンバーグを食べながらぼくに言った。お母さんも「おばあちゃんのとこなら、ここより涼しいしどうかな?」と言った。ぼくはどうでもよかった。別に家にいることはつらくなかったし、元々公園でよく遊ぶタイプでもなかったから、なによりゲームがたくさんできることが嬉しかった。転校してからお父さんたちは勉強しなさいとうるさく言わなくなった。
「いいよ」
 ぼくの言葉にお父さんたちはほっとしたようなさみしそうな顔をしていた。それからぼく一人だけがおばあちゃんの家に行くことになった。何だか自分が物語の主人公になったみたいで興奮していて、引っ越しの前の夜はあまり眠れなかった。いつも見ていたはずの自分の部屋がまるでホテルの部屋のようで、すこしだけもったいない気持ちがしていた。

 おばあちゃんの家まではお父さんが車で送ってくれた。助手席に乗ったぼくのことを気にしながら、お父さんは転校した学校について話していた。
「父さんの頃には通信制の小学校なんて考えられなかったよ」
「通信制ってなに?」
「んー、毎日学校に行かなくてもいいってことかな」
「毎日学校にはいってるよ。家から出てないだけで」
「そっか。そうだよな、じゃあ何ていうんだろうな。あの学校は」
「学校は学校だよ。校舎や教室はないけど、クラスメイトだっているし」
「楽しいか。学校」
「前よりはずっと。この前だって一緒にゲームしたし、あのさ、マサムネってやつがマジで上手いんだよ。1対3でも勝っててさ、どうやってるか聞いても答えてくれないし」
 赤信号で車が止まり、お父さんは笑顔でこっちを見た。
「へぇ、男の子か。ショーマ君だってかなり上手かったけど、それ以上にか」
「ショーマが得意なのは格ゲーでしょ。マサムネが上手いのはFPSとかTPSとかだから、全然違うし」
「……父さんもゲームやらなきゃいけないかもな」
「父さん、ゲーム下手でしょ。この前だってすぐやられてたし」
「練習するさ。アオと一緒に遊ぶために」
「いいよ、気が向いたらね」
 窓の外を見ていると遠くに大きな山が見えた。カツラのように雲をかぶっていて山全体が白っぽく透明だった。家の近くからでも山は見えたけれど、緑色のものばかりで山っていうのはそういうものだと考えていたから、お相撲さんみたいだなと思った。ポケットからスマホを取り出して、写真を撮った。走りながらだったけれど、綺麗に撮れた。後でマサムネに見せてあげよう。マサムネはゲームも好きだけど海とか山とかも好きだと言っていた。
「綺麗だろ、今の季節は一番あの山が綺麗に見える時期だから」
「そうなんだ。でも、ネットにあった写真の方が綺麗だよ」
「プロが撮った写真の方が綺麗に見えるだろうな。でも、自分で見るのと写真で撮るのは、少し違うぞ。よく見てみろ」
 お父さんは道路の端に車を止めてぼくの撮った写真を見てから山の輪郭を指さした。一緒に見えるけれど、なにかが違う。白い雲の隙間にみえる青空、透明で空気のようで大きな山。じっと見つめていて目が痛くなった。だからわかった。
「もしかして、太陽?」
 ぼくが答えるとお父さんは頭を撫でてくれた。ちょっと力が強くて頭が痛かった。お父さんの手は大きくて温かくて、ちょっと恥ずかしかった。
「太陽みたいに輝いているものがあるときは写真で見ても綺麗だけど、実際に目で見たり体で光を感じた方が凄さがわかるんだ。違うかもしれないけど、父さんはそう思ってる」
「そうかも。でも、写真はどこにだっていけるから。それが写真のいいところだと思う」
「ああ、どっちがいいってことじゃないよな。どっちもいいんだ。お前は頭がいいな、アオ」
 また、お父さんはぼくの頭を撫でた。もう恥ずかしくはなかった。

 それから一時間もしないで車はおばあちゃんの家についた。おばあちゃんはぼくのことをすっごく歓迎してくれて美味しいクッキーをくれた。そして使っていなかった部屋の一つをぼくの部屋にしてくれることになった。ぼくの部屋より小さな秘密基地みたいな部屋だった。そこはもともとお父さんの部屋だったとおばあちゃんは教えてくれた。日焼けした木製の机にはたくさんの傷がついていて、角にひらがなでお父さんの名前が書かれていた。ぼくより下手くそな字だった。
 お父さんはすぐに持ってきたノートパソコンをインターネットにつなげてくれた。だからぼくは学校に繋げて、クラスメイトの欄からマサムネを探した。武将の兜と眼帯のアイコンが緑色の枠で囲まれていた。
『引っ越し完了! 途中で綺麗な山の写真が撮れたから送るね』
 キーボードを叩いてメッセージを書き写真と一緒に送信した。するとすぐにマサムネから返信がきた。
『すげぇ綺麗な山じゃん、いいなぁ。でもオレも今日は近くの神社に行って写真撮ってきたぜ』
 送られてきたのは赤い鳥居がずらりと並んでいる写真だった。天気も良くて鳥居が輝いていた。だから、思い切ってメッセージを送った。
『今度ぼくも一緒にその神社見てみたいな』
 胸の上に手を置いて息を吸った。いつもはすぐに返信が来るのになにも返ってこない。マサムネはなんて答えるだろう。クラスメイトだけどぼくはマサムネの顔を見たことはない。どこに住んでいるのかも知らない。好きなゲームやマンガのことは知っているし、社会の勉強が得意なことも算数が苦手なことも知っている。
 でも、ユウジとは違って一緒にいたわけではないし取っ組み合いのケンカもしたこともない。好きなことはたくさん知っているけれど嫌いなことはあんまり知らなかった。パソコンの中の学校はお互い話したくないことは話さないでいい。好きなことだけで繋がれるから、気持ちが楽だった。一緒にいると気になっていることがわかるから疲れるし、昔の学校のこととか転校の理由とかあんまり聞かれたくないこととかわざわざ話さないでいい。転校したときに先生が言っていた。『ここにはいろんな人がいる』って。それは自分からこの学校を選んだ人もいるし、ぼくのように「にげる」を選んだ人もいるっていうことだとなんとなくわかった。だから、ゲームとか勉強とかとは違うことで仲良くなりたいと思うことが怖かった。
 ドキドキしていた。でも学校に行かなくなったときとは違うドキドキだった。そしてマサムネから返信が届いた。
『一緒に見よう! 絶対、約束だからな!』
 ぼくは椅子に沈み込んだ。熱い息を吐き出してドキドキを感じていた。嬉しかった、一緒の気持ちでいて安心した。初めて、本当のマサムネに触れたような気がした。でもそれは違う。ずっとマサムネはマサムネだった。全部本物なんだ。
 メッセージを送信して部屋を出た。お父さんとおばあちゃんのこのことを話したくなった。ぼくの友達と学校のことを話したくなった。そしてもっと勉強しなくちゃと思った。国語とか算数とかのじゃないことをたくさん勉強しようと思った。この学校ならきっとそれができるから。
『絶対、絶対一緒に見にいこうね。約束だよ!』

 ぼくの学校には校舎がない。下駄箱も教室も、音楽室も事務室も校庭もない。クラスメイトとは会ったことはないし、先生の顔も知らない。画面の中にしかいないけれど、ぼくたちは世界のどこかにいてインターネットでつながっている。
 普通とは少し違う学校だけど、ぼくはこの学校が大好きだ。「にげる」を選択したぼくだったけれど、ここではみんながゆるくつながっている。嫌なことだってないわけじゃないけれど、ぼくはぼくの時間で生きていられる。
 ぼくの周りの全てのものがぼくにとっての学校になるんだ。

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