私と夢と文学と。

 私は小説を創作することが好きだった。創作することでしか自分が生きていることを認められなかった。

 文章を褒められたのは中学校の国語の時間だった。たまたま読書の楽しさを知り始めた頃だったこともあり、私は作文という文章表現がとにかく楽しかった。そして原稿用紙二枚分の文章を書いてみようという課題で、私は友人の消しゴム視点で物語を書いてみた。それが友人や先生によくウケたので私はいい気になって小説を書くようになった。

 小説を書いているときの自分が何より好きだった。誰かに認められた行為を続けることは大嫌いだった私自身を許せる気がしていて気分が良かった。そうして私は文章を書き続けた。意思の弱い私は世の中の安易で単純な幸福に引っ張られ、小説を書くということを貫き通すことができなくなっていた。

 ふと太宰治の人生に触れる機会があった。彼は日本人の殆どが知っている有名な文豪で、そして何より生き方という観点で文学者然としている。あれほど苛烈で魅力的な彼の生き方に惹かれない人は少ないだろう。

 私は太宰治になりたいなどと思ったことはなかった。しかし、自分の中にも太宰治のような心があるような気がしていた。もちろん彼の感じていた葛藤ははるかに大きく苦しいのだろうし、私に彼のような文才があるとも思ってはいない。それでも時折、彼のように生きたいと思うことがある。そして彼のように死にたいと思う。

 しかし、残念なことに私は太宰治になることはない。もし彼のように生きて死んだとしても太宰治に取り憑かれた哀れな人間の一人でしかない。私の言葉は時代の中で薄れ、消えていくしかない。

 それでもいいと今は思う。生きていた証を残したいと思っていたけれど、それさえもう、どうでもいいと思う自分がいる。ただ楽になりたいと思う自分がいる。
 気づけば私が真に生きたいと思ったことなどなかったように思う。ただ家族がいて友人がいて、彼らが自分を大切にしてくれるから死なずにいようと思っただけだった。生きながらえたとしても彼らの支えになることがないなら、むしろ死ぬことで私を忘れてもらったほうがいいのかもしれない。

 死ぬことは本当に怖い。それでも生きていることもまた怖い。小説を書いて、人に何かを届けたいという思いはいまだに胸の中に燻っているけれど、人生をかけて夢を叶えようという活力も無くなってしまった。

 生きる理由なんてないという。ただ生命を維持させていくことが大切だと人はいう。なら、私の肥大化してしまった自尊心はどうすればいいのだろう。なりふり構わず生きてやるという生存本能さえ失われかけている私を動かしているのは、生きる理由や目的の探究に他ならないのだ。それがないと心から理解して納得してしまったら、私は本当に死ぬしか無くなってしまうじゃないか。

 言葉は凶器だ。人を簡単に殺してしまう。誰を傷つけたかも分からないほどに薄く、鋭利な武器だ。

 美味しいものはいらない。ただ安らかに眠りたい。
 生きていたい。自然の中でひっそりと眠るように終わりを迎えたい。
 まだこんなにも欲がある。卑しい自分が嫌いだ。

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