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日誌20240812

旅行行ってました。ということで、基本的に成果はありません。強いて言うならそれっぽい詩を制作したことでしょうか。詩……というより情景の言葉によるスケッチといった方が良いかな。

ひぐらしの様なバスの軋み
蝉時雨を見つける
揺蕩う流れ
刺す日差し
かつての日 色あせた案内板
木漏れ日が心を揺らす
照らされ露になる緑 虚心に陥る
進み 深く 嵌り 陥る
崖を覆う金網
苔のグラデーション
しだれかかる弦の群れ
夏からは逃げられない

狭間のダム 
行く道曲がってトンネル
まっすぐ行った道はどこに続くのか
トンネルの染みの暗示
異界への入り口
薄浅葱色の湖
仄暗い期待を感じる道の底の谷
飛び抜ける 空中回廊進んで
斯くして湖は全容を見せる
登る道に遡る時 想いを馳せ 憂い帯びて
憩いの場所を求め続ける
夏からは逃げられない

抜けた橋の上
古ずんだ一軒家
清流と緑の瓦
錆びた鉄の道具
針葉樹の合間 見える送電塔
冷酷な岩肌 のしかかる山の森
役目を終えた掲示板
天翔る山々の眺望
ただじっとしている
こだまする薄暗い森
合間をかき分け進んでも
陽光は心を茹らせる
夏からは逃げられない

掛かる鉄道橋 反射する水面
変わりゆく天気 濁りぼやける心の色
蛇行する童貞
裂け目から見える白色の灯
今は無き記憶に身体を震わせる
現在ここにいたということ
それすらも
或いは夏の悪戯か
谷底への道は過去への回廊か
夏の奴隷

思ったこと

正直よく分からん。けど多分どこか部分的には使えると思うので何かしら活用しようと思います。

今日読んだ本

旅行行って本ばっか読んでたので多いです。

社会学についての本。なんとなく興味が湧いてとりあえず5月に借りてちょくちょく読んでたが、540ページもあると思わないじゃん。

部分的にはなるほど、と光るような点はあったが、あまりに長すぎるし社会学の基礎的な知識も一切なかったせいで、遅々として進まず読むのにアホ程時間がかかった。

そのせいでぶっちゃけ最初の方の内容については覚えてない。自分を認識するからこそ自分が存在するとかなんとか、みたいな話は面白かった。一定の範囲を切り取って自分なりに噛み砕くのはいいかも。

社会学的にどうかは分からないけど、少なくとも所学者向けではないです。

これも同じく時間がかかった奴。5月辺りに借りた。ゆっくり読破していったが、これも400ページ超ありつつ内容も割と専門的(平易ではあるが)。

正直滅茶苦茶興味がある分野ではないが、こういう系の本も悪くないと手に取ったが、かなり読むのに時間がかかってしまった。

価格硬直性の話は割と興味深かった。マクドナルドが値上げしまくったりしてるのは日本の企業とは違って企業側に価格決定力があるからなのかな。デフレの弊害とかの話は最近の出来事と関連してて面白かった。

ただ読破に時間かけすぎね。これも最初の方の内容覚えてない。

(1~5巻迄)

ゲーマーズ!を読破しようと思ったが、Unlimited対象から外れてしまいなんとなくこれを読んだ。

名前通りポストアポカリプスものだったが、よく考えられてて感心。割と悲惨だけどラノベだけあって軽く読めた。

続編も読んでみようと思う。ぶっちゃけ他の小難しい本とか因習の口直しな面はあります。ラノベはなんだかんだでハッピーエンドよりになると信じてる。

クソ分厚い京極夏彦のデビュー作。420ページほどあったと思う。

最近ゲゲゲの謎を見たからか、こういう因習村、因習的な家柄にどことなく既視感を覚える。こういうのは割と典型的なパターンなのだろうか? それとも京極夏彦が後の作品に影響を与えているのか?

最初50ページくらい主人公と京極堂の話が続いてた時は少し心配だったが、途中からどんどん面白くなっていった。結局最初の量子力学関連についても一応つながったし。

妖怪系の話の大御所的な感じのイメージがあったけど、内容自体は意外や意外、そういうのを否定するような感じ。むしろ思い込みがそれを作る、という考え寄りだった。

もう30年前の小説なのでぶっちゃけるが主人公は信頼できない語り手寄りの人間。そういう小説を初めて読んだのでそこら辺も面白かった。

以前遠藤周作の『イエスの生涯』を読んでそれについての感想を偕和會という宗教を信仰している母に話したら、こちらの方が分かりやすいから読んでみろ、と言われたので読んだ。

いや、イエスの描写があまりに違いすぎる。これは先述した偕和會という宗教の創始者が記した本なのだが、もうイエス=神の子、神の代理者であることが前提。イエスの人としての面について深く考察している『イエスの生涯』と比べるとあまりに両極端すぎて驚いた。

一応プロテスタントの友人にも聴いたところ、実際キリスト教はそれ(イエスが神の子、代理者であること)が前提な面はあるとのこと。なるほど……。

……と、面食らってしまったものの、思い返せばその辺りは正直個人的には大して重要ではないと思う。以前も書いたが、蓋し宗教というのは生きやすくするための先人の知恵なのではないか。

この際イエスがどんな生き様を見せていたのか、聖書の内容が正しいのかは重要ではない。大事なのは、それが現代まで語り継がれてきたということである。

私は母がどれだけ説いたところで、神を信じることなどできそうもない。神がいるかどうかなんて正解のない無駄なことは考えず、教えや教訓などの都合良い部分を受け取るのが大事だと思う。

神とかイエスの奇跡は説得力を補強する為の描写に過ぎないのではないか。いわば自己啓発本の著者のプロフィールとか実体験の様なものであり、見ても大して意味は無いし、何も得ることは無い。骨子はその根底に共通する理念、教えだ。

これは宗教の体で書かれた自己啓発本だと私は解釈した。あくまで私個人の感想であり信者を謗る気は無いし、そもそも自己啓発的な教えは宗教全般に共通することかもしれないが。

雑記欄

山登りにはご用心

今回は両親との旅行だったが、父が2日目に湿原を見るコースを回ることを提案した。ふーん、と聞いていると何やら不穏。

4kmの行程で、高低差は600m……600m?
100m換算にすると……15m。100m毎に15m登るとか、相当厳しい山路ではないか?

そう思ったものの、まあ何とかなるだろと思って携帯食などを鞄に積めて両親と共に出発。しかし、予想以上にその道程は凄まじかった。

4kmで600mといったが、それは間違っていた。実際は最初の2kmで400m登り、残りの2kmで200m登る行程だったのだ。

断言しよう。あれは生半可な装備で挑んではいけない場所だった。何より、以前は林間学校などで整備されていたであろう階段などが経年劣化で全て消えており、その部分は全て難所と化していた。多分20年前と比べると難易度が2段階くらい上がっていたのだと思う。

クライミングまがいのことをする様な箇所は無かったものの、少なくとも初心者が安易に適当な装備で来ていい居場所ではなかった。はっきり言って自分たちが行ったことは富士山に半そで半ズボンで入山しようとする外国人達と大して変わらない。

ちゃんと動きやすい服装にして、登山靴を用意して、水は余裕をもって1L以上携帯し、手袋も身に着けて、タオル等も準備し、クマよけの鈴も付け(一応スマホの音楽などで代用できるとは思うが)、常日頃から体を動かして体力をつけ、ストレッチをして股関節の柔軟性を上げる。

初級者向けとはいえあれは完全に登山であり、細心の注意を払うべき場所だった。帰りなど両親が滑落しないかどうかハラハラしながら慎重に降りて行った。私はなんだかんだ若くて体力もあるのでどうとでもなるが、年老いた両親は違う。

大いに反省する。

想像以上に病んでる人は多い

最近思ったのだが、実は見えないだけで想像以上に病んでる人は多いのではないか、という話。

自分だって多少病んでいたし、他の人の話を聞くとかなり思い詰めていたという旨の話をされたり薬の話、家庭環境が良くない話などを聞く。

理由はそれぞれだし、大小はあるものの誰もが悩んでいるのだと再認識。意外と忘れがちだけど、みんな同じ人間で悩みも抱えるものなのだ。抱えない人間は極々僅かだろう。

それに、はたから見たら悩みの無い様に見える人間だとしても、実は内心深刻な問題を抱えているかもしれない。もしくは、悩んでも単にその対処が非常に上手い人なのかもしれない。悩みが表面上に見えない、というだけでその人となりを「悩みが無い」と判断するのは愚かな行為だと思う。

あの人はいいなぁ、と我々が思う時、我々はあこがれの対象に自分の理想像を押し付けていることを自覚すべきだろう。現実の「憧れの人」は決して我々の理想像通りの人物ではない。

隣の芝が青いからって、それだけを見て判断しないことが肝要だろう。
あなたが知らないだけで、その結果には血がにじむほどの努力の積み重ねがあるかもしれない。素晴らしい理想的な人物に見えても、実は内面では何かしらの問題があるかもしれない。

他人の曲を聴くということ

自分は音楽を聴きたいと思った時、真っ先に自分が作った曲を聴いてしまう。どうしてだろうか。

これについて少し考えていると、実は他人の作った曲を聴く、というのが私にとって自作曲を聴くことの代替行為となっているのではないか、という考えに思い当たった。

かつて曲を聴いていた理由は自作の曲が無かったから。その後、自作曲を制作するようになってからは多少完成度が低くても自作の曲をずっと聴き続けている。

現状何か理由が他にない限りは自作曲以外を聴く気がなくなりつつある。そうはいっても音楽理論などの観点から割と興味があるので普通に聴くのだが。

ただ、この感性はおそらく他の大多数の曲を作らない人とはズレてるんじゃないかな、とも思ったり。

思えば自分は好きなアーティストが基本的に存在しないし(しいて言うならLizstとかハマった時期はあったけど)、調べる際もあくまで曲主体の興味であり、決して作者のことを深く知ってファンになろうとは思っていない。ぶっちゃけ哲学もそこまで興味は無い。

どれだけ哲学があっても、どれだけ素晴らしい価値観を持っていたとしても、肝心の曲が悪ければすべて台無しになる。逆に打算的で売れることだけ考えているようなものでも、結果的に出力された曲が素晴らしいならそれは素晴らしいと自分は思う。

作る側に立ったことでどのようなアプローチで制作したのか、とかに思いをはせることは増えたので以前より作者に対する興味関心は増したかも知れないけどね。

ちなみに自分が最近悩んだり小難しく考えることが多いのは、そっちの方が歌詞や曲の出来が良くなる様に思えるから。実際最近出来がいいな、と個人的に思ったのは当時悩みまくってた頃の歌詞だし。

これも一つのアプローチ。

明日の予定(大味)

明日は旅行中に開催されていた深夜の2時間DTMの曲を制作したりスケッチを作ったりしようと思う。

終わりに

詩?を作ったり、本を沢山読んだり、何かしらの物事について思索を巡らせたり。

自分はバリバリインドア派だが、たまにはこういう旅行も悪くないかも知れない

それでは。


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