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【過去記事】アラブの春・リビアからの出国の経緯【2】

前回の記事の続きです。

●2月21日(月)
日曜日からの日付が変わってすぐの未明、大使館の方からの夫携帯への電話で一度目が覚めた。
「そちらは、大丈夫ですか?様子を教えて下さい」
とのこと。
確かに銃声は聞こえるけど、それほど近くない。
大丈夫。

後から知ったけど、この方は毎日ずーっと夜は街の様子を調べたり、夜警をしていてくれたそうです。
ありがとございます。
お子さんもいるのに、きっと奥様も不安だったことでしょう…

そして、朝は6時ころに起床。
飛行機が飛ぶはずの夕方あたりに娘のお昼寝時間がくるよう、娘だけはもうしばらく眠らせておくことに夫と決める。

夫の上司のフランス人から、7時ころ夫の携帯に着信。

「妻を空港に送ってきたが、すごい人だ。
 そして空港までの道には、ライフルを持った警官(軍人?)が」
 たくさんいる。自分は3回止められた。
 時間に余裕を持って出たほうがいい」

というアドバイス。了解です。 

ラッキーなことに、この朝はネットが割と早く動いた。
すかさず、スカイプで実家に連絡。
その日のカタール航空で飛ぶ予定だと伝える。

そして、もろもろの準備。

飛行機が遅れた場合、娘がお腹をすかせるといけないので、お好み焼きのようなものを数枚焼く。

そして、娘が9時半頃起きてきた。

朝ごはんを食べさせたりしていた10時過ぎ、夫の携帯に上司の更に上司であるイギリス人から電話がかかってくる。

「良かった、電話が通じた。
 ドライバーが迎えに行くのを待たず、
 今すぐ自力でゲストハウスまで来い。みんな居る」

とのこと。
クルマ、駐車場で閉じ込められてるんですけど…。
すがるような気持ちで、昨日のリビア人同僚に電話すると、ラッキーなことに電話も通じ、すぐ来てくれるとのこと。
良かった…。これでクルマが出せる。

外に出ると、ひどく臭かった。
火薬の臭さか、ガスの臭さか。
催涙ガスって、こういう臭いなのかな?

そして、夫が同僚と少し話したところによると、
「今晩、何かが起こる。今日を境に、事態は変わるかも」
と言っていた。
でも、良く変わるか、さらに悪くなるかは神のみぞ知る。

10時半ころ、家を出発。
街は、ほとんどのお店が休業状態。
本来なら賑やかな通りなのに、シャッターが閉まっている。

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↑偶然ですが、日本大使館の旗が映っています。
この通りの裏に大使館があるので。
大使館のみなさん、本当にありがとうございます。
気を付けて!

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我が家からゲストハウスはクルマで15分くらい。

その間に見られたものはわずかですが、見たものを挙げると…。

・数件のパン屋が営業していて、人が行列を作って順番を待っていた。

・八百屋も、1~2軒は営業していた。

・道端のところどころに、焼け焦げの跡。

・人通りも、全くないわけではない。
 意外なことに、子供だけであるいているのも見かけた。
 女性が一人でパンを持って歩いているのも。
 開店しているタバコ屋に群がる男性たち。

・ガソリンスタンドは、軒並み閉店。
 クルマ社会のリビアでは、ライフラインのひとつなのに…。

・それでも、営業中のタクシーや乗り合いバスが数台いた。

・破られた大佐のポスター

画像3

走行中のクルマの中から撮ったので、見えにくくてごめんなさい。

リビアの街中には、至るところに大佐のポスターが設置されています。

普段の様子は、前の記事の最後の写真をご参照ください。

それが、大佐の肖像部分がびりびりに裂かれていた。
これは、本当に“その時”が来ているんだ…。

そして、無事にゲストハウスに到着。
でも、駐車場がないので、建物の前に路上駐車。
このクルマ、どうするんだろう…。
一応、会社が借りているレンタカーだけど、乗り捨て?

ゲストハウスの中は、社員とその家族でごった返していた。

わが社は多国籍企業なので、ヨーロッパ系・アラブ系・アジア系の人々が入り混じり、民族博覧会の様相だ。

知り合いのロシア女性にも会えて、無事を確認できた。
でも彼女は、まだフライトが決まっていないと言っていた。
まだ1歳の赤ちゃんがいるのに…。
そして、こんなに大勢の人々全員が、この宿にちゃんと泊まれるんだろうか?
もしかしてロビーに雑魚寝になったりするのか?

そこで11時から1時間くらいいたが、上司のフランス人のアドバイスが気になったので、ゲストハウスのスタッフに頼んで、早目に空港に出発してくれるようにした。

同じカタール航空で飛ぶというパキスタン人の大家族と一緒に、クルマにすし詰めになって乗車。
(社員はもちろんパパで、妻・(社員の)母・子供3人)
彼らは、ベンガジのオフィスに勤務していたらしく、土曜日にやっとの思いでトリポリに脱出したと言っていた。
「ベンガジはとても良いところで、人々も優しかった…」
と、とても悲しそうだった。

ドライバー(リビア人)は出発前、他のドライバーと電話で道路の状況を情報交換していた。

それでも、道は混んでいる。
じりじりと焦る。

そうこうするうち、道中に一軒だけ開いているガソリンスタンドを目撃。
ものすごい混雑ぶりで、クルマが群がっていた。

どうやらその行列が渋滞の原因だったらしく、そこを抜けると一気にスムーズに動き始めた。
良かった…。

空港には、1時に到着。
フライトは4時半なので、まだ時間は十分ある。

…だけど、空港の建物に入るまでにも大行列!

建物の入口に荷物のX線検査レーンがあるのですが、そこを通過するためにみんな並んでいたのです。

横入りしようとする図々しい人たちと、どつき合いながら、何とか30分くらいかけて入場。

空港内部も、ものすごい人人人!
カラダの置き場を見つけるのも難しいくらい。

他の日本人の人たちも、もう来ていた。
この日は、カタール航空組と、ブリティッシュ航空組。

このとき話した方は、ガルガリッシュ通りというメインストリートのすぐ脇にお住まいなので、
「夜中じゅう銃声が聞こえて、本当に恐怖だった」
と言っていた。
そうか、やっぱり家の位置が数百メートル違うだけで、全く違う時間を過ごしていたんだ…。
我が家は、いろいろ恵まれていた。

大使館職員の方も、「日本人の方が無事に出国するのを見届けるために」と来てくれていた。
お忙しいのに、本当にありがとうございます。

帰国する日本人の中には単身赴任の男性も一人いらっしゃいましたが、ほとんどが母子の組み合わせ。
家族そろってパパも帰国できるのは我が家だけでした。
きっと皆さん、旦那さまを残して帰国するのは不安なことでしょう…。

チェックインにものすごく時間がかかりましたが、一応飛行機は定時にテイクオフ。

ここからは、もうスムーズに動き始めました。
カタール空港での乗り継ぎも上手くいき、
リビアの家を出てから24時間以上かかりましたが、日本の家に無事にたどり着きました。

到着して数時間後、リビアは22日(火)夕方の時間帯だったので、娘のボーイフレンドK君ママ(日本人)に電話をしてみました。

・22日の彼らが予約していたフライトが欠航になった。
・23日は、2つのエアラインの予約を入れた。
・今はトリポリ東部にあるオフィスに、会社の社員と一緒に寝泊りしている。
・新聞で読んだことを思い出し「街に死体がたくさん倒れている?」と訊くと、
「大通りは通っていないから分からないけど、それは大袈裟なのでは?」
という返事。
すくなくとも、彼女たちの居る場所は、そこそこ平穏らしい。
良かった…。

空港に関しては、ある程度正常に機能したのは我々が出発した21日がギリギリのラインだったようです。
本当に、滑り込んだという感じでした。

一日違うだけで、そんなに歯がゆい思いをしなくてはいけないって、何と言えばいいのか分かりませんでした。

彼女には、23日の夕方のタイミングでまた電話してみましたが、話しはできませんでした。

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転載はここまでです。
結局、とり残された邦人の17名は、24日にスペインの軍用機で脱出できました。
ドバイで記者会見も行われましたので、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
幼児や小学生のお子さんたちもいらっしゃったので、本当に大変だったと思います。

そして、私はこのリビア脱出(2011年2月22日)からしばらく、2歳半だった娘と一緒に東京の実家に身を寄せていました。
けれど、その直後に怒ったのが、3月11日の東日本大震災。
そこからまた我が家の激動の2011年が始まるのですが、そのお話はまた別の機会にしたいと思います。

大長編にお付き合いありがとうございました。


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