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わたしはアドルフ、あなたもアドルフ。演劇「アドルフに告ぐ」を観て来たお話

 2015/6/21にアップしたやつ。

 手塚治虫後期の傑作「アドルフに告ぐ」が舞台になったと言うことで、馬車道のKAATまで観に行ってきました。6月6日のことです。
 KAATでの公演は終わっており、今後は全国での上演になっております。

 アドルフ・ヒトラーが実はユダヤ人の血を引いていた、と言う設定で、彼の出自を示す機密文書を奪い合う人々の姿を描く作品です。主人公は3人。神戸に住む、ドイツ政府の役人を父に、日本人を母に持つアドルフ・カウフマン。同じく神戸に住む、ユダヤ人で実家はパン屋を営むアドフル・カミル。そして、アドルフ・ヒトラー。カウフマンとカミルは幼馴染の親友ですが、カウフマンの父が息子をドイツのヒトラー・シューレに送り出したことから微妙に友情が歪みだします。
 また一方、峠草平と言う男が狂言回しとして登場。新聞記者である彼は、ベルリンオリンピックを取材中、同時にドイツに留学していた弟からヒトラーの出生に関わる機密を知らされ、その情報を齎した弟は何者かに惨殺されます。弟の死の謎を追ううちに、彼は窮地へと追い込まれていきます。
 3人のアドルフと峠草平、そして彼らの家族や旧知の人々が、機密文書の存在によって、そして戦争によって人生を大きく変えられていく様を描いたお話。文庫版で全5巻、舞台はベルリン、神戸、福井県の敦賀、と多岐にわたり、登場人物も多い、スケールの大きな作品です。それをどうやって舞台にまとめるのか興味津津でした。

 漫画の導入部、なぜ機密文書が草平の弟の手に渡ったのかと言う場面や、草平を追う特高刑事との日本海を舞台にした逃亡劇は大きくカットされ、「3人のアドルフ」により焦点が当てられた筋書きに集約されていました。なので、私が結構好きな敦賀のパートは無くなっていたりしたのですが、その分、アドルフ・カウフマンとアドルフ・カミル、「正義」と言う言葉に翻弄されたふたりの男を通じて「正義とは何か」を我々に強く問いかけてくる作品になっていたような気がします。
 特に終盤、カウフマンが行ったひとつの愚劣な暴力が、彼らの対決を決定的にする場面などは、「教育」と言う一般的には素晴らしいとされているものが、人のこころをここまで歪めるのだと言うことを浮き彫りにしていました。この作品において、「正義」と言う言葉の反対語は「悪」ではなく、「また別の正義」であり、それは偏見や、教育や、無知や、また憎悪と言ったもので糊塗され牽強され、そして決して「正義」ではない醜悪なものへ変貌して行きます。3人のアドルフたちは「正義」を行っているつもりで生きていて、彼らひとりひとりと相対すれば、彼らは必死に生き、愛し、守ろうとしているだけなのに、彼らが出会うことによって生まれるものが憎悪でしかない。この哀しい事実を、我々はどうやって乗り越えて行かなければならないのか。そんな強いメッセージを感じました。

 1980年代に週刊文春に連載された、物故した作家の漫画を、2015年に舞台演劇にする。手塚治虫は多作で有名な作家であるが、その中から「アドルフに告ぐ」を選ぶ。それ自体が強いメッセージを発しているように私には思えます。
 今年の初め、パリで恐ろしい事件が起きました。「彼ら」の正義とは異なる正義を持った人が、「彼ら」を殺したのです。人々は怒り、殺された人々に連帯を示しました。そしてそのおよそひと月後、「彼ら」を殺した人々と同じ神を信じる人が、私たちの同胞を殺しました。人々は怒り、殺された同胞に連帯を示しました。「私は、シャルリー」。「私は、ケンジ」。
 異教の教えを侵したから、異教徒だから、と言う理由で、パリの彼らも、日本人の彼らも、命を奪われました。ユダヤ人だから、と言う理由で数え切れないほどの人が殺された70年前と何も変わらない。ヒトラーもその部下も、彼らの正義を行ったつもりだったのでしょう。ISのひとびとも、そう信じているのでしょう。それは何も変わらない。
 そしてまた、私たちの同胞の中で、日本に永住する他の国の人を殺せと街宣を続ける人々がいます。彼らはネットに流れる本当かどうかも解らない情報に触れて、他の国の人が日本からいなくなることは正しいことで、彼らは自分たちより劣っているのだ、と信じています。私からすればどうかしていると思いますが、彼らは彼らで、正義を行っていると思っているのでしょう。電車の中で私のお向かいに座って嫌韓本を読んでいる、一見普通のおじさんは、もしかしたら奴らを殺せと、東京の街中でシュプレヒコールをあげているかもしれない。その薄皮一枚隔てた身近にある歪みを、私は恐ろしいと思う。でも、それは本当に身近にあって、鬼や獣が行っていることではない。同じ人間が行っていることなのです。
 私はシャルリー、私はケンジ。
 けれども、私はアドルフになってしまうかもしれない。あなたも、アドルフになってしまうかもしれない。
 それを止めるものは何なんでしょうか。
 こんな最近だからこそ、この作品が演劇になった意義は大きいと思ったのでした。

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