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古今東西刑事映画レビューその7:インファナル・アフェア

2011年から2015年の間、知人の編集する業界誌に寄稿していた刑事物映画のレビューを編集・再掲します。

2002年/香港
監督:アンドリュー・ラウ
主演:トニー・レオン(チャン・ウィンヤン)
   アンディ・ラウ(ラウ・キンミン)
   ウォン(アンソニー・ウォン)
   ホン・サム(エリック・ツァン)

 「韓流」と言う言葉を見聞きしない日は無い昨今。韓国発祥のエンターテインメント・コンテンツを表す「韓流」と同じように、中国語文化圏のそれを表す言葉がある。
「華流(huáliú)」と呼ばれるその言葉、目にしたことがある方も、少なからずおいでのことだろう。今世紀に入ってから作られた言葉だが、こんな風に命名される前から、我々日本人が「華流」的エンターテインメントに慣れ親しんできたことは、我が国の昭和芸能史を振り返れば明白である。アグネス・チャンやテレサ・テン、ジャッキー・チェン。日本でも人気を博した「華流」スターたちは枚挙にいとまがない。
 映画に関して言及するならば、「華流」の中でも特に香港映画は我々日本人にとって身近な存在だった。80年代のカンフー・アクション、90年代の繊細な青春映画などのトレンドを経て、00年代に入っても、数々の香港映画が我が国に届けられている。今回ご紹介する“インファナル・アフェア”も、そんな「華流」の名作である。
 では、香港映画の魅力とは、何だろう。ハリウッドのそれに引けを取らないアクションの描写や、欧州の各映画祭でも批評家らを魅了した監督たちの映像感覚など、作品としての質の高さはまず言うまでも無い。そして、アジアを代表する俳優たちの、美しくも親しみ深い面差しや、異国ではあるけれども、どこか東京や大阪の路地裏を思わせる香港の街並みの身近さも、魅力を引き立てている要素だろう。しかし何より忘れてはならないのは、我々と彼らには数千年にわたる文化的な交流の歴史があると言うことだ。
 この作品の原題は“無間道”と言う。作品の冒頭でも言及されるこの言葉の意味するところは、仏教世界に八つ存在する地獄の中で、最も過酷な罰が与えられる地獄のことだ。殊更に仏教を信じていなくても、その言葉が喚起させるイメージは、製作した彼らと、観ている我々との間で、恐らくそう乖離してはいないだろう。より直感的な、皮膚感覚にも似た、物語の背景への理解。それは、映画を楽しむ上で、より大きな手助けになってくれるものだ。
 本作は、香港の暗黒街を描く「香港ノワール」と呼ばれるジャンルの王道を行く作品である。犯罪者が居て、それを追う刑事が居る。香港の雑然とした隘路を銃弾が飛び交い、男たちは傷つき、死んでいく。無骨で男くさい物語が、繊細な映像とともに展開されていく。
 物語の妙味は、警察とマフィア、双方から互いの組織に潜入している二人の男がいることだ。アンディ・ラウ演じる、マフィアの放ったスパイのラウと、トニー・レオンが熱演する、類稀な洞察力を買われてマフィアに身を窶すことになった潜入捜査官のヤン。彼らは各々、使命感や野心に燃え、心身を疲弊させる仕事に身を投じている。自らの本性をいつわり、アイデンティティを摩耗させながらも日々を過ごす男たち。何故そこまでして彼らは潜入を続けるのか。彼らの、ひいては人間の善悪の本質は何処に在るのか。そんな問いが我々観客には突きつけられる。
 彼らが仕事を果たす中で交錯し、やがて終局を迎えるまでを、息もつかせぬスピード感で見せてくれる。102分と言う短さなのに、物足りなさをまるで感じさせないのは、脚本と映像が、作品世界をことごとく語りつくしているからに違いない。
 ところでこの“インファナル・アフェア”。ハリウッドからリメイクのオファーが殺到したことでも知られている。結局マーティン・スコセッシが“ディパーテッド”と言うタイトルでリメイクし、マット・デイモンとレオナルド・ディカプリオがそれぞれアンディ・ラウとトニー・レオンの役を演じ、スコセッシに待望のアカデミー監督賞を齎した。そればかりか、“ディパーテッド”は作品賞・脚色賞・編集賞と、実に4冠をものにしている。2007年1月の出来事である。
 それはそれで、“インファナル・アフェア”のアイデアが類稀なるものであったことの証左に他ならない。だが、両方を見比べたアジア人である筆者には、“ディパーテッド”が物足りなく思えてならない。
 なぜならば、本作が“無間道”と言うタイトルでなくてはならなかった理由が、“インファナル・アフェア”のラストシーンにおいてはっきりと描かれ、それこそがこの作品の真骨頂なのにも関わらず、ハリウッドリメイクはそこを変えてしまっているからだ。
 それは、「地獄」と言うものに対する、我々と彼らの文化の違いが招いた悲劇かもしれない。そうだとするならば、ため息をついて諦める他は無い。数千年の文化の溝を、一朝一夕で埋めることは不可能だからだ。
 そしてただ、“無間”と言う言葉を皮膚感覚で理解出来る、我が身の僥倖を感謝する他は無い。

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