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古今東西刑事映画レビューその41:フリック・ストーリー

2011年から2015年の間、知人の編集する業界誌に寄稿していた刑事物映画のレビューを編集・再掲します。

1975/フランス・イタリア
監督:ジャック・ドレー
出演:アラン・ドロン(ロジェ・ボルニッシュ刑事)
   ジャン=ルイ・トランティニャン(エミール・ビュイッソン)
 
 舞台は1947年、未だ大戦の爪痕が残るパリ。
 伝説のギャングと、それを追い、捕らえた刑事の物語だ。刑事が後に著した手記が原作になっている。そんなところは、少し“アンタッチャブル(’87)”に似ている。だが、こちらの作品の方が随分と古い。
 主演はアラン・ドロン。主演だけでなく、自ら映画化権を獲得し、プロデューサーとしても名を連ねているところからも、彼自身、かなり力を入れた作品なのだろうと言うことが推察される。
 監督は、アラン・ドロンとの共作も多いジャック・ドレー。彼とアラン・ドロンといえば、ギャング映画“ボルサリーノ(’70)”の方が有名かもしれない。だが、今回は刑事が主人公のこちらをご紹介したい。タイトルのフリック(FLIC)は、警察官や刑事を意味する俗語なので、直訳すると「刑事物語」とでも言うところだろうか。
 主人公のロジェは、フランス国家警察(アメリカにおけるFBIのような組織)の刑事だ。若いながらも数々の事件を解決し、役職に就くのも目前と噂され、自分でもそれを否定せず、むしろ、役職者並みの貢献をしていると自負している。恋人のカトリーヌと同棲しており、昇進したら結婚するつもりだ。オリーブグリーンのトレンチコートを常に身にまとい、朝から晩まで咥え煙草。見るからに刑事然とした容貌の男だ(もしかしたら、すこしばかり美男過ぎるかもしれないが)。
 若く、野心に燃えるロジェのもとに、願ってもない事件が転がり込んでくる。何件もの殺人罪で投獄されていた凶悪犯、エミール・ビュイッソンが脱獄したと言うのだ。ロジェの上司は、「エミールを逮捕できれば昇進、出来なければ左遷だ」とロジェの功名心を煽り、競合するパリ警視庁の連中には負けるなと発破をかける。勿論そんなことに臆するロジェではなく、同僚の刑事たちと共に早速捜査を開始する。
だが、そんな警察をあざ笑うかのように、エミールは自分を密告したかつての仲間を公衆の面前で射殺。更にはレストランで強盗を働き、彼らを追跡してきた若い巡査をも殺害する。
 捜査は遅々として進まず、マスコミからの批判も日増しに激しくなり、ロジェの上司は我が身可愛さ故か、毎日のようにプレッシャーをかけてくる。そんな中、お抱えの情報屋から彼らに繋がる情報を手に入れたロジェは、ようやく突き止めた彼らのアジトを急襲するのだったが……。
 と言うのがあらすじだ。刑事側の目線の描写が多くなってしまったが、実際に本編を観ると、両者のシーンはほぼ半々くらいのボリュームで、刑事パートとギャングパートが交互に繰り返される。刑事の視点では決して分かり得ないことも観客は知ることが出来るわけで、具体的にそれは何かと言うと、眉ひとつ動かさず邪魔者を消していくエミールの冷酷な姿なのだ。
 ロジェたちが追うギャングの恐ろしさを知る我々は、刑事とギャングたちの間に必ず訪れる邂逅を、衝突の予感を、より強く意識させられながら物語を追うことになる。
 この作品を素晴らしい刑事映画として成立させているもの、それは、アラン・ドロンとジャン=ルイ・トランティニャン、ふたりの俳優の力に負うところが大きい。野心家で、街のチンピラを子飼いにする狡猾さと、口うるさい上司のお小言をひらりひらりと躱す図太さを持ったロジェと言う男だが、不必要な暴力を非常に嫌う一面も持つ。同僚の刑事は、尋問中に平気で容疑者に暴力を振るい、それを誰も気に留めていない様子なのだが、ロジェだけは嫌悪感を露わにし、そのために同僚と衝突しさえする。また、エミールに対しても、「アル中の親父に育てられ、小さいころから盗みを仕込まれたんだ」と、彼の境遇に同情する様子さえ見せる。仕事が出来、ハンサムで、正義感もあると言う、ともすれば現実味のないキャラクターを、しかしアラン・ドロンは絶妙のバランス感覚で演じ、物語の展開に説得力を持たせている。
 対するジャン=ルイは、饒舌ではなく、表情にも乏しいエミールと言う男をこれもまた素晴らしい演技力で演じきっている。邪魔者や裏切者を次々と粛清し、仲間たちからさえ恐れられる孤高のギャング、エミール。常人にはにわかに理解しがたいこの男になりきるのはさぞや難しかっただろうが、名優の面目躍如と言ったところだろうか。
 物語の終盤、ロジェとエミールがいよいよ対決するシーンからラストシーンまでの、一連の流れは素晴らしい。ここまで人間味を一切見せなかったエミールが微かにほのめかすそれは観客の胸に迫ることだろう。そして、ロジェが示してきた正義感はこの場面を描くためにあったのだと、気づかされるに違いない。
 演出ひとつひとつは決して派手なものはなく、むしろ地味すぎるくらいだ。“フレンチ・コネクション”のような伝説のカーチェイスシーンも無ければ、マイケル・マン監督の作品のように華麗ささえ感じさせられるほどの銃撃戦も無く、香港映画のような街中を巻き込むような逃走劇も出てこない。ギャングが犯罪を犯し、逃げ、刑事がそれを追う。そういう静かな映画だ。ハリウッド産の大アクション映画のようなものを期待して観ると肩透かしを食らってしまうかもしれない。しかし、そんなものが無くても、刑事の物語は成立する。この作品は、それをこの上なく饒舌に語ってくれているのである。

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