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河出書房世界文学全集レビューその① ケルアックからフォースターまで。

2011/12/16にアップしたやつ。

 最近、池澤夏樹編集の世界文学全集読んでるんすよ。
 小さいころから本好きだったけど、社会人になったあたりから、あんまり読まなくなっちゃって。会社帰りに本屋開いてないし。何か休みの日にも電話かかってきまくりで心が休まらないし。ええ、半分言い訳です。けど、ほんとにそんな感じでした。だもんで、学生時代に好きだった作家の新作と、ファッション誌(仕事柄)を読むだけと言う、かなりお粗末な感じになっていました。
 そんな今年。仕事を辞めて、私の前にはただ茫漠と、時間ばかりがありました。
 だから「本を読もうかな」と思ったわけです。
 どうせ読むなら、ガッツリ読もう。今まで読まなかったぶん。
 そう言う訳で、結構、怯んじゃうくらいボリュームのある、この文学全集を手に取りました。
 装丁がとても美しいですね。自分の部屋にあったらさぞや壮観だと思います。心がパッと明るくなるんじゃないかな。
 全部読んだら、感想を書こうかなと思っていたのだけれど、全部読み終わる頃には最初に読んだものを忘れている可能性が高過ぎたので、早めにちまちまとご紹介して行きます。

 1960年代、アメリカに「ビートニク」と呼ばれるサブカルチャーが勃興したらしい。その一派の中心人物は、「ビート・ジェネレーション」と呼ばれる、1920年から30年代生まれの小説家や詩人だった、らしい。「らしい」と言うのは私が不勉強だからで、しかし学生時代にちょっとばかりサブカルをこじらせていたので、なんとなーく知ってはいた。で、その本山に登ってやりましたよ!と言う。
 若き作家サル・パラダイス(これはケルアックの分身と思われる)が、理由もなく、ただ何かに引っ張られるように、不意に日常を断ち切って、友人たちとアメリカを放浪する旅に出る、と言うロード・ムービー的なお話。
 若者と旅。黄金カードです。たまごかけご飯くらい黄金の組み合わせです。
 ただ、彼らの放埓さ加減がイマイチ「アホじゃねーの?」みたいに思えてしまって、彼らが何故そこまで突っ走るのかをイマイチ理解出来なかった気がする。マリアナ海溝並に深い、アメリカの保守とリベラルの溝とかを知ってたら、主人公サル・パラダイスの理由なきモラトリアムも、よりシンパシーをもって理解出来たのかもしれない。あと、時代背景も。ベトナム戦争に向かう、アメリカの最も重苦しい時代、そんな中で彼らが旅立つ意味を、より深く理解できたかもしれない。
 それでも、読んでいて感動したところは幾つもあって、とにかく彼らが求めていることは自由、ただひとつで。周りの人間に虚仮にされても、仕事が無くても、貧しくても、何も持たなくても、彼らは心底自由で、何者にも阿らない。そして、何の根拠も無くても、明日が輝かしいと信じてる。
 さっきも申したように無職になってしまったわたくし、非常に励まされました。
 励まされたので、ぶらっと一人旅に行ったりしてみたり。
 15年前に読むべき小説でした。青春ばんざーい!

 関連作として、紹介。やはり「ビートニク」の作家として持て囃された、W・バロウズの代表作。ジャンキーの妄想が延々と繰り出されるサイケデリックなシロモノ。

 2010年にノーベル文学賞を受賞した、バルガス=リョサの小説です。
 19世紀にフランスで活動した画家、ポール・ゴーギャンと、彼の祖母で革命家だったフローラ・トリスタン、両者の物語です。時と場所、更には人称までをも変え、リョサは二人の人生を巧みに描き出しています。
 これはめっちゃ面白かった。面白かったし感動しました。訳も良かったんだと思います。
 夫からの抑圧を逃れ、女性の解放と、労働者の団結を説いて回ったフローラ。新しい社会の枠組みを作ろうとした彼女の孫ゴーギャンが、人間社会からの脱出を願って、当時世界最先端の街だったパリから、タヒチへ移住したと言うのは中々劇的な素材だと思います。祖母も、孫も、共に孤独の中で病み、人生を終えて行きます。しかし彼らの魂は、(「オン・ザ・ロード」に引き続いてしまいますが)自由!ひたすら高潔で、孤独で、自由なのです。
 生きているってきっとそう言うこと。何も持たなくても、心のままに生きることが素晴らしいんだ。
 そんなことを、読みながら思ったり、思わなかったり。
 ポール・ゴーギャンは、私の愛する画家のひとりです。彼の絵が出ている展覧会はよく観に行きます。それもあって、この物語を更に面白く感じたんだと思います。
 いつかゴーギャンのでっかい複製画を買っておうちの壁に飾るのが夢です。ささやか過ぎますが。

 関連作として紹介。同じバルガス=リョサの作品。こっちは去年から今年にかけて必死こいて読みました。アマゾンの流域で繰り広げられる人々の営みを、“緑の家”という娼館を軸に描いたわりと大河な小説です。読むときはメモ帳必須。途中で誰が何だか解らなくなる。

 これは映画を観たのが先でした。と言うか、この全集を見つけるまで、原作の小説があるとは知りませんでした。
 冷戦下、「プラハの春」時代のチェコスロバキアを舞台に、腕利き外科医のトマシュと、彼がナンパした郊外のカフェのウェイトレスのテレザ、トマシュの数多い愛人の1人で画家のサビナが、愛の相克を繰り広げる、と言ったようなお話。
 映画版は正直、3時間半の尺の長さに発狂しそうになった記憶しかございません。トマシュはただのナンパ師にしか見えませんでしたし。
 ですが、原作の小説は3人の苦悩と、作者クンデラの哲学、祖国に対する怒り、人間は本当に「軽い」存在であるのか、そんな諸々の思想がこれでもかと詰め込まれており、その情報の奔流に圧倒されます。文字と映像と言うのは伝えてくれる情報の方向性がこんなにも違うものかと感嘆します。
 もしかしたら私の、映画を読み解く力が弱いだけかも。

 何だかんだ言いましたが、とりあえず名作と言う扱いなのとジュリエット・ビノシュが可愛いのとで、お暇な方は観てもよろしいかと。

 マルグリット・デュラスの「太平洋の防波堤」「愛人 ラマン」、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ こんにちは」の3本で~す!(サザエ並のハイテンションで)
 「太平洋の防波堤」「愛人」ともに、ベトナムで暮らす入植者親子の物語で、デュラスの実人生とも大いに重なっています。主人公らの母親が、入植したは良いけれど役人に賄賂を贈らなかったため、汽水域の畑にも使えないような土地をあてがわれてしまい、財産を無くして人生を呪っている、と言うのが共通点。これは実際にそうだったらしく、そうやって毎日後悔の繰り言を聞かされる娘と言うのも、デュラスが少女であったころのリアルな姿ではなかったかと思います。
 「太平洋の防波堤」では金持ちのフランス人に見染められ、結婚を迫られる娘と兄、兄を溺愛する母、三者の愛に満ちた、しかしどこか歪んだ関係と、娘の自立が描かれます。「愛人 ラマン」では、主人公と、彼女に恋した華僑の青年との、濃密な性愛が描かれています。
 祖国から遠く離れ、母に反発を覚えている少女たち。彼女たちの寄る辺ない心情や、男を拒んだり受け入れたりする中で自己実現を果たしていく様子が、美麗な文体で描かれています。
 「愛人」のラストシーンはちょっとグッと来てしまった。涙がこぼれてしまいました。
 「悲しみよ こんにちは」は、サガンのバイオグラフィ込みで何だかスキャンダラスな感じがしてあんまり読む気がしてなかったものであります。
 南仏、裕福な人々のバケーション。美貌の若者たちの残酷な策略。
 このお膳立てで「死ね」って100回思える。何だよブルジョワめが。死ね。死んでしまえ。
 しかしながら。

 『ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。』

 物語の冒頭。この鼻もちならない、けれど怜悧な一文を、19歳で書けるのはすごい。
 才気だけで突っ走れる物語があるのだなと感嘆させられたお話でした。
 “若さは傲慢の揺籃である”。そんなことを思ったり、思わなかったり。

 上記4冊は、いずれも作家に関連したものを観たり読んだり、それなりにしていたのですが、この「巨匠とマルガリータ」だけはノーヒントでした。ウクライナ生まれのブルガーコフは、その作風がソ連当局に対する批判だとみなされ、著作の多くは死後改めて評価されたものだそうです。弾圧され、極貧を強いられながらも、彼が小説を「書かざるを得なかったのは、彼が天才だったからだ。それほど内からの促しが強かったのである」。と、池澤夏樹は解説で語っています。
 「巨匠とマルガリータ」と云うタイトルながら、全編にわたって登場しているのは「巨匠」でも「マルガリータ」でもなく、悪魔ヴォランドとその一味。第1部では、彼らが、モスクワの文壇・演劇界のお歴々に行う、まさに「悪魔の所業」が描かれています。「巨匠」と「マルガリータ」が出てくるのは第2部から。処刑直前のキリストを描いた小説を文壇に発表した「巨匠」は、作品を酷評されたことで心を病み、原稿を自ら燃やして精神病院に入院してしまいます。愛人のマルガリータは、そんな彼を救うためにヴォランドのもとで魔女になり、ヴォランド一党が取り仕切る悪魔たちの狂気の大宴会へと向かうのです。と、言うようなお話。
 悪魔が劇場を全く使いものにならなくさせ、文士たちの精神を崩壊させる描写や、キリストを題材にとった小説を自ら燃やさざるを得なかった作家の様子などは、当時のソ連当局の、苛烈な文芸統制を批判したものでしょう。そう言うことに思いを馳せながら読むのも良いですし、破天荒なファンタジーを素直に楽しむのも良いと思います。はっちゃけてて面白かったす。好きです。

 両方、第2次世界大戦後、比較的新しい世代のアジアの作家と言うくくりでの採録かと思います。
 「暗夜」は、残雪の短編小説集。初期の川上弘美が更に100倍不条理になったような作風。超短編はその不条理さが味になっていますが、物語が長くなってくると段々そのだらだらさ加減にヘキエキしてくる。小説を読むときに、映像が頭の中に広がるような読み方が出来る人は、読むと面白いかもしれない。私は、疲れちゃいました。
 バオ・ニンの「戦争の悲しみ」は、ベクトルが180度違います。
 ベトナム戦争からの帰還兵・キエンは、恋人フアンとハノイで再会を果たします。2人はともに生活を始めるけれども、キエンの心身には消し難い傷が残り、フアンもまたかつての少女のままでは無く、愛は立ち消えてしまいます。心の空隙を埋めるかのように、キエンは小説を書き始めます。その小説と、フアンとの愛の思い出が交錯する構成。
 自身も従軍していたベトナム戦争。そこで作家が目にした風景は、そのまま物語の中にも広がっています。視覚だけではなく、嗅覚や聴覚にまで入り込んでくるような、苛烈と言う言葉が生易しく思えるほどの、「殺し合い」の情景をバオ・ニンは冷徹に描き出しています。
 ベトナム戦争のことを、実は詳しく知りませんでした。第二次世界大戦以降の世界は、日本史でも世界史でも、3学期の終わりくらいに駆け足で教科書を読みあげる、くらいの教育しか為されていないように思います。1960年代に起こったこの戦争も、多分歴史の教科書で数行にわたって触れられているだけだと思います。
 しかし、知るべきではないかと思うのです。せめて、誰が何を行っていたかと言うことだけでも。
 「戦争の悲しみ」と言う率直なタイトルが、読後の読者の胸に改めて迫ってきます。「戦争の悲しみ」、それは喪失です。大きくえぐり取られた己の肉体、心、時間。取り返しのつかない、人生。奪われ、歪められた、人生。その重たさを慮ることさえ、ヒリヒリと痛い。読者はただ、戦争と言う愚行を、静かに怒ることしか出来ません。
 正直「暗夜」はどうでも良くて、「暗夜行路」読んだ方がよっぽどいいと思うくらいな感じですが、「戦争の悲しみ」は読むべき小説だと思いました。人として。

 ロンドンの富裕な姉妹と、実業家一家の交流を描いた小説です。立場の違いを超えて、人は人を理解できるのか!?その思考実験のような小説です。
 主人公の姉妹(と弟)は、親の残した財産で高等遊民みたいな生活を送っております。親が残してくれたくせに、「私は金持ちだから」とか言っちゃいます。正直、ムカつきます。額に汗して働いている実業家の男の人のことも、最初は軽くバカにしてます。ふざけた階級社会です。生まれと親の金で人生の難易度が変わるような社会はぶっ壊れてしまえば良いのです。イライラしながら読み進めて、ずっと読み進めて、終わっちゃいました。
 イギリスは今も結構ヘビーな階級社会だと聞き及びます。ケン・ローチの映画なんかを観てると何となくわかるような気がします。多分、そういうのが皮膚感覚として備わってないと、共感しにくい小説だと思います。
 最終的に解説で、なぜフォースターがこう言うような主題の小説を書いたかと言うことを知って、やっとイライラが解けた次第。心狭い読者で申し訳ないです。
 この小説は、正直あんまし面白くなかったなあ~。吉田健一の訳も読みづらかったです。教養が無いと解らない小説を無教養の人間が読むとツライと言う好例を体現してしまいました。


 今、1-8の「アフリカの日々/やし酒のみ」を読んでいて、中々面白いです。
 続きはまたそのうち。多分全部読み終わるのに3年くらいかかる気がする。でも、楽しく読んでいきたいです。


※2021年時点で読み終わっておりません。人生の宿題です。


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