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「災害を伝承する」碑の役割を見直す

ツバキのように堂々と花弁を開くでなく、どこか済まなそうにひっそりと咲く「侘助ワビスケ」は、安土桃山期からツバキ科の園芸種として栽培されている。名の由来も定かではないが、そのたたずまいから茶人たちが好み、茶席の花として生けたことから「侘数寄わびすき」より転じるとの説もある。鎌倉時代、禅宗とともに日本に持ち込まれた茶の栽培。〝茶礼〟が武士階級に広まると、戦国の武士達のステイタスとなった「侘び茶」は、茶聖・千利休によって完成される。その利休が仕え、のちに死を賜ったのが天下人・豊臣秀吉である。

秀吉は、中部地方を広域に襲った天正地震(1586年/M7.8?)と京都直下の慶長伏見地震(1596年/M7.25〜M7.75)、巨大な2つの内陸地殻内地震に遭遇している。城の倒壊から辛くも逃れたものの、天下趨勢の秤を徳川方に傾けた事象でもあった。江戸幕府が開府した慶長年間も、その20年ほどの間に伊予、豊後、伏見、会津でM7クラスの直下型と、三陸や関東以西の太平洋沿岸で発生した津波が被害をもたらし、地震の活動期だったといえる。

江戸時代は、気候的には小氷期に入り寒冷であったことから冷害も多く飢饉が頻発、さらに富士山や浅間山の噴火、度重なる大火に疫病流行と、日本史上大災害がもっとも集中した時代でもあった。一方、政治が安定したことにより「公儀」(=公共)による被災者への救済システムが機能し、幕府(国)から藩(地方自治体)、地域、各家に至るまで「防災」意識が高まり江戸中期頃より各地に災害供養塔・伝承碑が建てられるようになっていく。

慰霊と後世への教訓を石に刻み記したものであるが、永い間のうちに顧みられることが無くなったことで教訓を活かせなかった東日本大震災の事例から、国土地理院では2019年3月に自然災害伝承碑の地図記号を制定し、地図に「自然災害伝承碑」が順次プロットされることになったのである。
まもなく3月11日を迎えるが、もちろん、あの震災に限らず、地域の災害伝承は、地域に生きる人々が語り伝えることにこそ大きな意義がある。

Writing / 鈴木里美


参考資料|草木花歳時記・冬(朝日新聞社刊 1999年)|日本被害地震総覧(宇佐美龍夫著 東京大学出版会刊 2003年)|秀吉を襲った大地震(寒川旭著 平凡社刊 2010年)|歴史の中の大地動乱(保立道久著 岩波書店刊 2012年)|日本人はどんな大地震を経験してきたのか(寒川旭著 平凡社刊 2011年)|天災から日本史を読み直す(磯田道史著|中央公論新社刊 2014年)|江戸の災害史(倉地克直著 中央公論新社刊 2016年)|中世 災害・戦乱の社会史(峰岸純夫著 吉川弘文館刊 2001年)


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