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人生終了

プロレス好きのTさん

K工務店ではただただ働く日々だった。
相棒のGSX-Rは動かないままで俺には働く事以外に何もなかった。
仕事が終わっても部屋に現場の図面を持ち帰っては睨めっこしながら電卓を叩き理解しようと勉強した。

最初はキャリアのある職人さん達のスピードに付いていけず悔しい思いをしたけれど場数を踏めばそれなりのスピードで仕事が出来るようになってきた。今と違って酒もそんなに飲まなかった。
仕事が終わって缶ビールをちょっと飲むくらいで十分で酒好きと言う訳ではない。
仲間達と会えば遅くまで飲み続けていたが会話が楽しかった訳で1人酒は全くしなかった。

3LDKに8人も住んでいた真ん中の部屋、リビングの部分にTさんと言う自分より少し年上の人がいた。
Tさんは酒とプロレスとメタルが好きで仕事はそんなに出来ないけど面白い人だった。
1997年の10月、PRIDE1が東京ドームで行われヒクソン・グレイシーに高田延彦さんが敗れた時が俺が入社した頃だった。
前田日明さんを最強だと思い中学時代を過ごしてきた俺には衝撃的だったしTさんも同様にプロレスファンなので熱く、その話を語ったりした。

ただ極真をかじって格闘技通信を読んでいた俺からすると意見が対立する事もしばしば。
MMAなどと言う言葉は無く総合格闘技はバーリ・トゥードと呼ばれた時代、Tさんはバイオレンスなバーリ・トゥードには反対派だった。
そんなTさんを嘲笑うかのように俺は翌11月に行われたUFC JAPANを久しぶりにヨッチューを誘って見に行って桜庭さんの勝利に歓喜するのだった。
バーリ・トゥードを反対していたTさんだがそれについてはプロレスの勝利だと喜んでいた。

格闘技に関しては完全にプレイヤーではなくなっていたのだが間違い無く日々の仕事で体は鍛えられ強くなっている実感があった。

繰り返し


朝は6時くらいに起きると8Fで飯を食ったら1時間以上バンに乗って現場まで8時から朝礼が始まり休憩を挟んで終わるのが18時。
18時で終わる事は少なく残業手当もなかった。
20時くらいに寮に戻ると8Fで夕食を食べて部屋に戻ってテレビを見たりしながら洗濯をして翌日に備える。
ここの食事は今までの寮よりダントツで美味しかったけど同じ毎日が日曜まで続く。

日曜や雨の日は休みになるのだが車も無くバイクも動かない俺にとってはただ寝るだけの休みだった。
たまに当時好きだったニューヨークシティーハードコアのCDを探しに新宿西口にあった新宿レコードに行ったり給料日後に恵比寿の5差路のところにあったデビロックに服を買い物に行くのが些細な楽しみだった。

型枠大工のマンションの建設はほぼ同じ事の繰り返しである。
エントランス部の1F部分の施工が終わると2Fからは同じ材料を使いコンクリートを打つ度に上の階へと上がっていく。
コンクリ打ちまでは時間との闘いなのだが終われば少しゆっくり出来るはずなのだがK工務店では他所の現場の応援に行ってコンクリ打ちに間に合うよう働きまくる。

仕事自体は嫌いではなかったのだがメリハリの無い雇われ方だったと思う。ただただ労働を求めてくる会社だった。
酒好きのTさんは給料日前に前借りをお願いするもよく却下されていた。
そもそも会社の給料は一か月遅れで入ってくるので前借りという言い方もおかしい。
俺は当時松下電工の充電式インパクトとドリルを使っていた。
最初に携わった四ツ木のマンションは建物の半分以上を俺のインパクトでセパレーターと言う型枠と型枠の間を繋ぐ金具を取り付けた。
今ほど充電器具は性能が良くなったので一つの現場でフル活動すると電池は死んでしまった。
結構高額な電池だったので給料日までお金が無く、仕事で必要なものだから胸を張って前借りをお願いしに行ったのだが奥さんにはTさんのように俺の要請を却下したのだった。
そもそもあなたの旦那さんが俺からインパクトを借りてかなり使っていたのに…

この会社、金ないのかな?
他の人の給料は知らないが皆、貧しい生活をしているように見えた。
関東で現場仕事をしていれば高級車ぐらい乗れて当たり前だと思っていたのに。
そうこうしていると仲の良かったケンヤが横浜から実家に帰り、関東に残っている自分の周りの上京チームはほとんどいなくなってしまった。
俺は毎日同じ事の繰り返しの中で21歳にして将来が見えてくるように感じた。
田舎にいる連中はとても楽しそうで羨ましかった。常に仲間が周りにいるのだから。
しかし関東で何も掴めずに帰ったら俺は終わりだと思っていた。

時は刻一刻と過ぎていく。

でもどうすれば良いのか?
このままいけば将来的に親方にはなれるだろう。
でも今まで見てきた親方達が俺の望む姿ではなかったし、そもそも結婚とかできるのだろうか?
このまま東京にいても飲み屋の姉ちゃんくらいしか出逢いがない。
ツタヤでマンガを大人買いして日曜にそれを読む。日曜は寮の食事が無いのでスーパーかほか弁で弁当を買いそれを食った。
マンション下のスーパーの総菜コーナーのおっさんに作業着姿の俺は「旦那、旦那」と声をかけられていた。
俺はまだ21歳だったが終わっているオーラが全開だったのだろう。
忙しく働いていても仕事がつらい訳ではなかったが、もう人生終わってるような気がしてきて仕事以外の時間は頭の中に「お前は終わってる。終ってる」と繰り返し何かに囁かれているようだった。

そんな思いとは裏腹に仕事をしていれば褒められる事は多かった。
親方も奥さんもずっとうちで働けと言うし地元の両親も友人達も俺を偉いと言う。
一年近くK工務店で働いていると車の運転も自分が担当するようになった。それに対しての手当ては無いし仕事が増えただけだった。
当時会社の同僚にNと言う同い年の奴がいた。「俺の先輩はバイクや車に詳しくお前のバイクの話をしたら直してやると言ってるぞ」
俺は藁にも縋る気持ちでGSX-Rをその人の家まで運ぶと、その先輩とやらに持っていたパーツリストを渡し言われた20000円を払った。
レース活動もやっていたと言うこいつは結局その後、俺のバイクを触る事は一切なかった。
単純にお金だけ盗って語ってあとは何もしなかったのだ。

最初に行ったバイク屋も同僚に紹介されたこいつもマジで糞だと思った。
しかし当時の俺は寝てしまえば全てがリセット出来た。
夢の中では沢山の出逢いがあるしどこにでも行ける。
睡眠が現実逃避となった。

D建設の頃からドコモの携帯を使っていた。
料金は口座引き落としだったのだがある月に残高不足だったようで俺の携帯の通話が止められた。
どうでも良いと思った。
止まった携帯はそのままにして誰ともコンタクトを取らずに仕事だけをした。
全く連絡の取れなくなった俺を両親は心配して会社に俺の消息の問い合わせをしていたくらいだ。
それでも毎月基本料金は引き落とされていたので必要となればいつか払おうとそんな気持ちで放っておいた。
毎年楽しみにしていた盆休みもどうでも良くて山形には音信不通のまま帰省しなかった。

毎日車の運転をしながら隣に座る職人さんに俺はポツリと呟いた。「あぁ〜死にたいなぁ〜」と。
職人さんはまだ若いのにと言って驚いた表情でそれを聞いていたが俺はただただ働く毎日がつまらなく、何の為に生きているのか解らなくなってきていた。

ある日の仕事帰りの夕方、俺の運転ミスで大型のダンプにぶつかりそうになった。
クラクションを鳴らしダンプは去って行ったけど俺は運転している運転席だけを当てて殺して欲しかった。

13階建てのマンションが現場だった時、風がとても強かった。
材料を搬入する為に誰かが13階の鉄骨の上に立ちクレーンを操作しばけばいけなかったのだが皆が怖がるこの作業を俺は進んで引き受けて13Fの跳ね出した足場から地上を見渡しても何も怖くはなかった。
このまま飛び降りたら楽なのかな?
飛び降りようと頭の中をよぎるのだが人に迷惑をかけてまで死ぬ必要は無いと思ったから飛び降りはしなかった。

ある日曜日に上野のディスクユニオンにCDを買いに行くと映画館に上映中のポスターが貼られていた。
その映画はアニメのスプリガンで原作は俺が大人買いした漫画でもあった。
更に監修は俺の大好きなアキラの大友克洋さんだと言う事に驚いた。
そのポスターには「戦って死ね」と書かれていた。
俺は自分に言われてる気がした。
映画館に入りそのチケットを買った。
普通に面白くて死ねと言われるような重い内容はなかったけどあのポスターのタイトルは強烈に自分の中に残った。


俺はもっと何かをするべきなのでは?
そんな気持ちでPRIDE4を東京ドームに見に行った。
高田vsヒクソンの再戦である。
結果は初戦と同じように高田さんが極められて終わった。
でも死にかけていた俺の気持ちは格闘技会場で少しだけ熱くなっていた。

泥棒

1998年も終わりに近づいていた。プロレス好きのTさんは会社を辞めその時期に数人が同じ寮の部屋から去っていった。
今になれば労働と報酬は見合ってなかったと思うし辞めていく人達の気持ちは理解が出来た。
かと言って当時の俺はわざわざ辞めて良い条件の会社を探すような気力は無かった。
バイクは嘘つきに預けたまま仕事だけに没頭していた時期だ。
仕事終わりの帰り道、俺は渋滞で長い時間になるので皆にビールをよく買っていた。
携帯は止まっているものの借金は無いし家族もいないから自由に使える金が俺にはあった。
友人達とも連絡を取っていないから唯一信じられるのは一緒に働き生活をしている会社の面々だけだった。

疲れた仕事終わりに俺がビールを買うと車内の面々は気を遣うなとか言いながら笑顔でそれを飲んでくれていた。
些細な事だが1時間以上の帰り道でバンの中で話が盛り上がればと思って俺はそれをやっていた。

当時の給料は現金の手渡しだった。

わざわざ銀行に入金するのも面倒なので部屋のタンスの中にそれを入れて少しずつ財布に補充するようにしていた。
お金に関しては適当だったのだが給料日前に妙に残金が少ないと思う事があった。
けれども何も疑わずきっとビール買ったり使ってしまったんだなと自分を納得させていた。

ある日タンスを開けると4万ほど入っていたはずの封筒が空になっていた。
頭に中が真っ白になった。
疑わしいのは隣の部屋の○○さんだったけど笑顔でビールを飲んで語っていたその人が俺の金を盗むとは思いたくもなかった。

俺の精神は限界だった。

8Fの社長宅に行くと親方は酒を飲んで少々酔っ払っていた。
奥さんにお金を盗まれた話をすると犯人は○○さんだろうから○○さんをクビにすると言う。
寮は誰でも出入りが出来たし○○さんが犯人だと言う確証はない。
奥さんが盗まれた金額を払ってくれるのであれば俺の気持ちは少しくらいは収まったのかも知れないがそう言う話はなかった。

俺は辞めますと言った。

親方は酔っぱらいながら「は?」と言った。
親方ファミリーは総出で俺の退職を受け入れてくれなかったが俺はもう辞めますと言って部屋に戻った。
エレベーターを降りて1Fのエントランスにあったピンク電話で半年以上ぶりに実家に電話をした。
突然の電話に母親は驚いていた。
俺はもう終わったと伝えた。
俺の状態を心配した親父はすぐに親戚の大工に2tトラックを借りて高速を飛ばして山形から俺を迎えに来ると言う。

俺はその後、嘘つきの家にGSX-Rを取りに行った。
インターフォンを鳴らしても誰もいなかったのだが敷地内にあったGSX-Rには鍵が付いたままだった。
鍵を回すとインジゲーターが光った。
セルを押すとかからないと思っていたエンジンがかかった。
相変わらずブボブボと調子は悪いままだったが俺はノーヘルのまま寮まで乗って帰った。
それから一睡もせずに荷物をまとめた。
沢山の漫画とCDとGSX-Rと仕事道具と作業着、一年以上いたから結構大変だった。

朝の5時くらい。
6Fのベランダの外からトラックのディーゼル音が聞こえた。
何故か車の音だけで親父だと解った。
ベランダから道路を見下ろすと住所だけを頼りに来た親父が目の前のゴルフの打ちっぱなしの辺りをウロウロしている。
俺はダッシュで1Fに降りるとバイクと荷物を2t車に積み込み一睡もしていない状態で東北道を俺の運転で下った。
行き道では親父は慌てていたようでガス欠をしたそうだ。

5時間くらいの帰り道で俺は初めて長く親父と話をした。
最終的に高校の卒業は必要だったか?と言うお題になり俺は結局のところ全く必要無かったなと言うと親父は必要だと言い張った。

その後のお話

結局お金を盗まれたりしなければ俺はまだ働き続けただろう。
翌年に再び上京する事になるのだがK工務店で同い年だったNと寮で隣の部屋だったMさんとはK工務店を辞めてから半年後くらいに食事をした事があった。
その時の会話で会社はいろいろ大変そうだなと感じた。

このnoteを書くに当たってK工務店はどうなったのかと気になってググってみた。

Kは珍しい苗字だったので探しやすいのだが足立区にそれはもう無かった。
皆どうなったのかな?と思いながら検索の一覧の中に同じ苗字のK建設と言うのを発見した。
20年以上経っている。
検索にあったK建設は型枠だけでは無く足場なども手がける大きな規模の会社だった。

そのHPにはブログがあったのだが手がけている工事などが紹介されていた。

代表取締役の名前を見ると当時見習いで高校にも行かずに働いていた社長の息子の名前があった。
当時彼は始めたばかりで何も出来なかったので仕事を俺が教えたりもしていたのだが21歳の俺と17歳の彼だったのでそんなに歳の差はないのだが学歴もない状態から立派な建設会社を立ち上げている事には驚いた。

本当にあれから凄く努力をしたのだろうし、今もしているのだろう。
俺はそれを知れてとても嬉しかった。

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