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U-FILEスタイル

インストラクター

DEEPのフューチャーファイトを終えた辺りに、練習後に田村さんとストライキングコーチの磯崎さんに、選手数名がジムに残るように言われた。
磯崎さんが説明をしてくれたのだが内容はこれからは日替わりで選手達がジムの指導をするようにして欲しい言う話で、条件として今後の月会費は要らないけど、これからの試合のマネージメント料はジム側が30%取ると言う事だった。

また今後はU-FILEが独自で大会を開いていくと言う話もあって、その大会で使われるルールについての話も兼ねた。
打撃のみの試合と寝技のみの試合、どんなルールが良いか?と皆でミーティングすると言う感じだった。
選手の中では年上だったし自分は思っている事をを言わせてもらったのだが、田村さんは自分が競技に対してバイオレンスな考えの持ち主だと気に入らないようだった。
ジム内のルールでフロントチョークとヒールホールドは禁止となっているくらい安全面に煩いところがあった。
しかし出場する試合はフロントチョークもヒールもOKなのにおかしいと自主練で我々は何でも有りでやっていた。

日替わりインストラクターについては週一回指導すれば月12600円だったかの会費が要らないと言う事は魅力的だった。
指導料が貰えない点については、何かの労働に対して報酬を払うと言う部分が抜けている体制であったが、なかなかそれを突っ込めない雰囲気がU-FILEにはあった。
マネージメント料の30%はキックボクシング出身の磯崎さんが考えたようだった。
通常のボクシングジムやキックのジムを参考にしたらしいのだが、そのようなジムにはトレーナーや指導者がいるのに我々は指導者になってしまいトレーナーもいない。
インストラクター制の導入によって田村さんの指導日は週一になってしまった。
そもそもU-FILEって田村さんに習いたい人やファンが多かったので正直これはどうか?と俺は思っていた。

俺達はまだまだ習うべき人間なのに教える側に回って良いのだろうか?
大会についてもまだまだ弱い俺達がパンクラスやその他の同世代選手達を放って独自の試合とかやっている場合なのだろうか?
確かにU-FILEと言う名前があって皆、試合をする事が出来ている。U-FILEじゃ無ければ今までの試合の話も無かったであろう。
しかし試合はさせてもらえたけど、この時点では過去2戦のギャラはまだ未払いのままだった。

仕方がないけどポジティブに考えて週一回、自分の指導の時は自由にジムを使わせて貰えるからラッキーと思うようにした。
田村さんが一般の時間にあまり来なくなる事も、考え方次第では自由に練習が出来るようになる。

打撃は磯崎さんがバチバチにやらせてくれていたので自分の指導日は金曜日20時からのグラップリング上級を選択させてもらった。
初級の始まる19時からは仕事終わりでは間に合わない事も多く、20時以降の上級(以前は昇級試験で昇級が必要)となれば選手や選手志望達とガンガン練習出来るのでそれは自分にとって良い練習になる。
クラス分けがなくなってからは初心者と中級者の境がなくなり、誰でも中級に入って来ようとするのを俺は阻止するのだった。
「もうちょっと初級でやってください」今よりも殺気があったので簡単にはクラスに入れない空気を作っていた。

世界のTK

とある田村さんも練習に顔を出していたグラップリング練習の日。初級から参加していると「お願いします」と見慣れぬ大柄な人が入ってきた。
それは世界のTKこと高阪剛さんだった。
リングスの高阪さんの試合を沢山見て技術ビデオを持っているくらいだった俺なので「うわーTKが来た」とファンのようにテンションが上がった。

高阪さんが着替えて出てくるや田村さんのグラップリングスパーが始まった。
2人の動きは正しく回転体だった。
実は田村さんは自分達とやる時は圧倒的なパワーで潰して何もさせなくすると言うパターンが多く、クルクルと昔のリングスでやっていたように動く事はほとんどなかった。
しかしこの日は縦に横に回転をしていて最終的に高阪さんが田村さんを極めていた。
これは凄いぞと俺と同じように2人のスパーそ眺めていた佐々木恭介と目が合った。
スパー後、田村さんは「髙阪ちょっとやってやって」とジムのアマチュア達を指名し高阪さんはジム内でもまだまだの奴等の相手をさせられるのだった。
耳が湧いて頭にテーピングを巻いていた俺は「何故せっかく来た高阪さんがあいつらと〜」と苛ついていた。
田村さんは俺を危険分子的に思っているところがあるので高阪さんには近づけたくなかったのだろう。
しかしこんなチャンスを逃す訳にはいかないと隙を見て髙阪さんに接近して「次お願いします」と勇気を出して言ってみた。
すると「お願いします」と高阪さんがどこの馬の骨かも解らぬ若造に敬語で返してくれたのだ。
田村さんは自分が高阪さんとスパーする事に対して「危ないからちゃんと見ていて」と上山さんに言っていた。

スパーが始まると俺はいきなり腕十字を下から仕掛けた。さっきまでのアマチュアとやる感じで脱力だった高阪さんは反応が送れて腕が伸びた。
伸びならも巨漢をクルクル回転させて十字は逃げられてしまった。
その後、急にスイッチが入った高阪さんは田村さんとやっていた時のように攻めに転じてきた。
必死に動いたのだが固めに来る感じはなかったので攻防は止まらなかった。
すると高阪さんはU-FILEでは禁止されていたヒールホールドを仕掛けてきた。
うぉーと再びテンションが上がった俺はヒールを解禁してカウンターを狙った。取り合いの攻防の後、俺はヒールを取られてタップした。
しかしその後も動き続け濃厚な5分は終わった。

次は佐々木恭介が髙阪さんにトライしたものの柔道出身者同士だと柔道で上回る高阪さんに先手を取られてやり難いそうで横三角で簡単に極められていた。

佐々木とのスパーが終わった後に高阪さんが自分に近づいてきて「もう一本良いですか?」と話しかけてくれた。たまらなく嬉しかった。
2本目も止まらずに動いた。
荒々しくパワーと勢いで攻める俺に高阪さんは受け流すようにグルグル動き最終的には極めにきていた。
再び濃厚な5分はあっと言う間に終わったのだがスパー後に気になったムーブがあったので質問すると高阪さんは丁寧に教えてくれた。
勿論その時教えてくれた事は20年以上経った今でも鮮明に自分の中に残っている。

一通り練習が終わると田村さんが「高阪は下からでもどんどん動いてくるから面白いよね」と自分に話しかけてきた。「はい」としか答えなかったけど「あなた俺達にはあまり動かないでパワーで圧倒するだけじゃん?」と心の中で思っていた。
閉館後、佐々木と我々のスパーを見ていた太志朗とこの日の事をテンション高めで話し合っていた。

ヒロミチ登場

変わらず日々、仕事と練習に明け暮れて週末は練習後に大量に酒を飲んでいた。
上山さん達と合コンしたり、年下を連れて飯に行ってキャバクラ行ったり格闘修行僧みたいにはならずに豪快に生活していた。
19歳で上京し松戸のD建設から足立区のK工務店の3年間の日々が仕事漬けで精神的にもキツく何をやっても楽しくなかった。
その時に比べて毎日の仕事に加えて格闘技をやっている訳なので肉体的には倍の負担がかかっていた。腰や金槌を握る右の手首など、どうしようもなく痛い日も多かったが、自分より若い奴等と好きな事をやっているから気持ちは常に満たされて幸せだった。

ジムには新車のボルボステーションワゴンで通う40歳くらいで金髪坊主頭のおっさんがいた。
戦闘力は低いのだが練習参加頻度はかなり高かった。
容姿が当時“浅草ヤング洋品店”に出演していた中野裕通さんに少し似ていた事もあり、すぐに会員さんにあだ名を付ける節のあった上山さんにはヒロミチと陰で呼ばれていた。
ヒロミチは俺が教えると言うか監修している上級グラップリングクラスにも何故か現れて、俺のこっち来んなプレッシャーも通じずに参加する変わった空気感を発するおっさんだった。

俺がこっち来んなプレッシャーをかけても全く通用せず毎週練習に来られては仕方ないから教えるしか無かった。
よく解っていないヒロミチに技を教えるとその技を若者達相手に実践してやり合っていた。
俺は23歳で始めた格闘技だったのだけど、ヒロミチは39歳だったかで始めていた。それなりに社会的地位のありそうな感じなのに毎日練習に来る姿は尊敬にも近いものがあった。

「O井さん今度飯行きません?」「あぁ是非行きましょう」これが“俺達の始まりだった2”になる。※1は木下雄一氏

O井さんはコンビニの経営者でWEBデザインや印刷物のデザインなどの仕事もしていた。当時の我々からすればハイテク親父である。
ジム帰りの飲み会じゃなければ体中に高価なシルバーアクセサリーを付けて現れたり貧乏な我々と比べると上級階級の人間だった。

しかしジムに来れば弱肉強食の世界、選手達の餌食になりながらも飲みや飯の席ではベロベロになりながら最終的にはクレジットカードで全て払って、もう一件行くぞとキャバクラに皆を引き連れリーダーシップを発揮する頼もしい存在となった。
俺とO井さんは酒癖が悪く、飲んだ後に最終的に2人で肩を組んでベロベロになりながら歩く事が多かった。
酔ったO井さんが言うには「こんな年になって若い奴らと一緒に格闘技やって本気でぶつかってきて貰えるとは思ってなかった〜」
「全然本気じゃねぇよ。おい本気で打ってこい」
O井さんはえぇ〜とちょっと引いた顔をしながら俺を遠慮がちに軽くビンタしてきた。
酔っている俺は「それが本気か?もっと来い」
大井さんはもっと強く打ってきた。
「まだだ。もっと来い」バシッ
「もっと」バシッ、何度か続いた後、「よぅし次は俺の番だな」
俺はO井さんのエラの張った頬にフルスイングで張り手を見舞った。O井さんは一撃でアスファルトに沈み一瞬記憶を失った。
周りにいた人間が「長南君やめなよ」と言っていると地面に横たわりながらO井さんが「コイツは本気でぶつかってくれてんだ。そんな事言うんじゃねぇ」と絶叫していた。
O井さんはドMだった。
そのくらいの時期からO井さんは選手達の試合は必ずチケットを買って応援に来てくれて、車に乗せて会場入りもしてくれるようになった。
飯や酒に非常にお世話になるのだが見返りとして我々が飲み会をする時に良さげな女の子が来ると彼は心から喜んでいた。

O井さん

DEEP3rd Impact

2001年の12月に3度目のDEEPが行われる事になった。
この日は今までと違ってDEEP事務局より長南亮を指名でオファーが来た。
対戦相手はパンクラスの冨宅飛駈選手だった。
冨宅さんはリングネームを改名していたのだが自分としては冨宅祐輔さんのイメージが強かった。

リングスファンでありながらも借りてきたパンクラスのビデオで何度か試合を見ていたし業界の大先輩だった。
ただその2ヶ月前に自分と同い年のネオブラ王者三崎和雄の右ストレートで8秒で沈んでしまっていた。
勿論大きなリスペクトがあった。
田村さんと同世代で激闘の数々を生きてきた訳でそんな先輩と試合して良いものなのか?
三崎の8秒勝利があって自分はその上に何をすれば良いのか?なかなかのプレッシャーだった。

試合前にオープンフィンガーを着けて遅くまで練習をしていると田村さんが「俺とやろうか?」と珍しく声をかけてくれた。
「お願いします」とMMAルールでのグランド状態でのスパーを行った。
田村さんに圧力をかけられクロスが割れるとサイドポジションからマウントを奪われた。
すると数分間に渡りマウントパンチを落とされ続けた。
この頃は自分の代名詞となるマウント返しもまだ未完成だった。本気で殴っている訳ではなく無いけど口の中はズタズタに切れていた。
ただ長々とマウントで抑えられて殴られたスパーだったけど終わってから田村さんに「こう言う場合はどうすれば良いですか?」と質問をした。
田村さんはグローブを外しながら「大丈夫。今回の試合でこんな状態になる事はないから」
冨宅戦について核心があるような言葉を残して事務室に消えて行った。
口の中の血を舐めながら、じゃあ何の為の練習だったのだろう?闘魂注入だったのか生意気だったからの制裁だったのか?と今でもその真意は解らぬままだ。

別の日の話、日々の労働と格闘技の練習で流石に体の状態は悪くなっていた。練習前にかなりの腰痛が発生して苦しんでいた。
うつ伏せ状態で後輩に背中や腰を踏んでもらっていた。
それを見た田村さんが現れ「ちょっとどいて」と自分の腰を両手でマッサージしてくれるのだった。
恐れ多いけどとても上手でガチガチの腰がほぐれていく感じがした。
もう大丈夫ですとも言えず田村さんは5分くらいマッサージしてくれたのだが「いつも先輩のをやっていたんだよ」と話してくれた。
終わってから正座して「ありがとうございました」と挨拶をしたのだけどこれが自分の生涯で受けた田村さんからの最大の優しさだった。
マウントパンチに続き急になんなんだろう?と思ったけれど自分の体を労ってくれた事は、とても嬉しかった。

12月23日、会場は今は無きディファ有明。DEEP1回目の大会が愛知県体育館で2回目が横浜文体、3回目になって会場がスケールダウンしている感は否めなかった。
イベント規模は低下していても今回からやっと入場曲が流れる事になり嬉しかった。
曲は当時狂ったように聴いていたSlipknotの”Sic”を選択した。イサミで作っていただいたショーツにもSlipknotとプリントされていたのだが曲の暴力性が自分の格闘技とシンクロしていたのだ。
入場曲が流れると自分の中の暴力的衝動が抑えきれなかった。
自分の好きな音楽で入場してスポットライトを浴びている。正しくこの日が本当のプロのデビュー戦だった。
遅れて先輩である冨宅さんが入場してきた。前回の敗北もあり、相手はまだ無名の若手、ギラギラしている自分とは正反対で悲壮感が溢れているように感じた。
単純な俺はどうやって破壊するかしか考えていなかった。勿論試合前は外国人選手達ともやり合ってきた冨宅さんだから実は相当強いんじゃないか?とか不安になる夜もあった。
リングに立てば殺ってやろうと相手を睨んだ。

インターバル中

映像も残っているので試合について細かい事は書かない。
防御重視の冨宅さんに俺が攻め続けると言う内容で終始終わった。
一度パウンドアウト出来そうな瞬間がありロープ際で逃げる冨宅さんに「逃げんじゃねぇ」と叫ぶ場面があった。
今となれば失礼だったけど殺す気だった。結局最後まで殺気が空回りした感があったが判定3-0で勝利する事が出来た。
それでも初めて試合した佐藤光留戦と比べると視界がずいぶんと広くなったように思えた。

この後の試合、何故か美濃輪育久選手の相手に大久保ちゃんが抜擢されていて自分が思っていた通り簡単に負けていた。
ジムでも自分にやられている大久保ちゃんが美濃輪選手(現ミノワマンZ)に勝てる訳が無い。

更にその後は上山さんがラバーン・クラーク選手に勝利しU-FILEは勝ち越しだった。
大会終了後は会場で打ち上げがあった。試合内容に反省点が多く少し落ち込んでいた俺だったが、初めて長南亮と言う一選手として代表の佐伯さんに挨拶をさせてもらった。
佐伯さんは「良いファイトだったね。気持ちがいいよ。また頼むよ」と自分に言ってくれた。

2001年が終わろうとしていた。2002年は更に格闘技の激しい渦の中に飲み込まれていくのだった。

2001/12/23ディファ有明で1番右が木下さん

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