戦場の悪魔〜死に物狂いの夜〜1
井原啓介は壮絶な気分でそこに立ち尽くしていた。
元はと言えば、自分が悪い。
それはわかっていた。
しかし、こんな目に遭う程か、という自己弁護を放棄する気にもなれなかった。胸がゾクゾクと鼓動に交えて怖気を放つ。恐ろしい気持ち、憂鬱で壮絶な気分が明確に脈を打っているのがわかる。
隣には、井原と同じ境遇であろう男があわせて5人連なって立っている。そして、何も知らされないまま、お互いに口を聞かないまま、ただ夏のひどく湿気を帯びたむせ返るような暑さが脂汗を殊更に強調するような不快感を睨みつけていた。
井原はコロナのせいで仕事を失った。
ほとんど自暴自棄になって、この閉塞感を絵に描いたような社会を恨み続けた。誰が悪い?誰かがこの世界の責任を取るべきだ!という、自分のまだ30年に満たない人生の中で培った責任が誰かに帰属するべき、という明らかに誰か支配する人間に都合のいい論法はこの場合明確に井原自身に帰ってきていた。
元々、世界はそんな風にはできていないのかもしれない。
貯金が尽きるまで酒を飲み現実逃避をした井原の行き着いた答えはなんとも形容し難い違和感と無力感の交差する印象の概念だった。
誰もいないマンションの狭い一室に垣間見たあまりに無情な世界の真理はしかし、酒のあてにもならなかった。
気がつけば会社員時代に作った小さな貯金はそこをついて、今月の家賃も払えなくなっていた。そんな時、マンションのポストにチラシが入っていたのを井原は発見した。「どうせ水道修理とかそんなんだろ・・・。」とあきれ返ること半分でそれを見ると、まさに今自分が必要としているものだった。
その表面には「コロナで困窮の皆様へのご融資!取り立てなし!金利なし!いつでもお電話を!」という文と電話番号が記されていた。
井原は部屋に戻るなり、早速その電話番号にかけた。
普通ならそんなチラシには目もくれない。しかし、今の井原はやはり冷静さを失っていた。電話口には耳に心地の良い女性がでた。静かで滑らかでどこか聞いたことのある声のような気がした。
井原は自分の困窮の様子を伝え、どうしても生活を立て直すために融資を受けたい旨を説明した。何もしてくれない国への恨み辛みや、政治への不平不満なども併せて訴えかけると、電話口の彼女は全てを優しく包み込むように聞いてくれて、「では、井原様へのご融資額を決定いたしますので今しばらくお待ちくださいませ。」という言葉の後「まず、第一融資として500万円をお振込いたします。」という声が聞こえた。それはもう井原にすれば天使の声にすら聞こえた。
涙ながらにありがとうありがとう、と伝え電話を切り井原は取るものもとりあえず酒を煽った。嫌なことが増幅する酔いではなく、ようやくこの鬱屈とした生活から逃れられるという晴れ晴れとした気持ちがその夜を彩ってくれた。
翌日、早速銀行へ出向いて自分の口座を見てみると心臓が爆発するかと錯覚した。あまりにも早く、そして間違いなく、口座には500万円が振り込まれていた。
何か起業するか、就職活動をするか。
井原は高鳴る胸を押さえきれずにまず100万円を引き出して就職の際に祖母に買ってもらったブランドものの長財布、長らく寂しかったその中にパンパンにお札を詰めた。
胸の中が暖かい何かに満たされたような気がした。
全く金額を見ずにレストランで食事をして、やはり酒に溺れた。
結局、井原は何もできなかった。
ただもらった金を無駄に消費して過ごしただけだ。
一ヶ月すると、マンションのポストに封書が届いていた。
もちろん、返済に関する書類だった。
井原はその文面を目にして飛び上がった。
『第一回返済日』と記された日付の下に、『返済額』が記されていてそこには¥500,000とあった。もうその時井原の口座にあった500万円は100万円を切るほどに目減りしていた。無意味に切りまくったクレジットカードの支払いと家賃の支払いを終わらせればもう50万円を下回る。
払えない。
どうしよう。
井原はさっと血の気がひいていくのを感じていた。
このひと月の全く無策な贅沢三昧を自分へのご褒美だと称して疑いもなく受け取っていた自分の愚かさを恨んだ。それは何もしてくれない国を、社会を恨んだのと同じ、全くもって甘い考えに基づく逆恨みと言ってよかった。
しかし。
『金利なし、取り立てなし。』という謳い文句があった以上、これを無視してもおとがめはないんじゃないか。という思考の逃げ道の誘いに、井原はあまりに容易く乗った。
そしてその通りにした。
自分には支払い能力がないのだから、払えなくて当然だ。
という理論を井原は採用した。
結局井原はその理論のまま、何もしないで借りれる場所から金を借りまくった。そしてそれを社会のせいにして遊び呆け、酒を煽り続けた。そうして半年が過ぎた頃、ポストにあの500万円の融資を受けたところからの封書が届いた。これまでに受け取った返済にかかる封書とは違う、大きな封筒だったので井原はそれを開けた。
そこに書かれていたのは思いがけない提案だった。
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