「人助け」の物語


「うさぎドロップ」を読み終えた後、強烈な違和感に襲われまして。

いや、終盤の展開ですよ。もしかしたら現実だと、ありうるのかもしれない(あって欲しくないです)けど、物語という「むしろ現実よりモラルが求められる場所」でそれはないでしょう、と。検索してみたら私と同じ感想を持っている人は相当にいるみたいですね。

この違和感の原因を考えました。単純な「関係性の変化」というところではなく、もっと根源的な違和感の原因です。

私なりに至った違和感は「現実でも物語でも『人助け』はなぜ歪んでしまいやすいのだろう?」という結論です。

うさぎドロップの主人公の選択は元々「この人を助ける(助けたい)」という単純極まりない動機で始まったことだったはず。「この人」が立派に成長して独り立ちするという結末と結論ではいけないのか?「この人」を助ける過程で、主人公にもより広い世界観が与えられ、より充実した人生を送れるようになった、という結末と結論ではいけないのか?

そこからさらに思索を勧めた結果「そもそも『人助け』という時点でお互いの関係性が対等ではなくなるのが不健全なのだろう」という推論に達しました。

…更なる疑問が湧いてきます。
「何故、助ける側と助けられる側が対等ではなくなるのだろう?」

そこで、私の読書体験のうちから両者が対等である物語を頭の中で探っていたのですが、なかなか見つかりませんでした。

まず思い付いたのが「銃夢」なのですが、よく思い返してみると、イドも相当歪んでて一方的にガリィに愛情を注いでいたのを、ガリィが自らの性質と意志力で強引にパワーバランスを対等に持って行った物語でした。「じゃあ、ガリィの強さを持った人間でないと対等な人間関係は築けないのか?」という疑問は取り除けず。

さらに考えていて気付いたこと。「ああ、マルドゥック・スクランブルは『人助け』の物語だったんだ」と。

そう思って読み直してみると「業務として人助けをする性的不能者のドクター」「対象に愛情を注ぐ『繊細な中年男のメンタルを持ったネズミ』」がやっていることは人助けだったんだと。ドクターはあくまでもビジネスとして誠実に業務を行うサポーターであり、助けられるバロットはあくまでも顧客。バロットに感情的に肩入れするウフコックは(生物学的な)ネズミ。

「『マルドゥックスクランブル』は、人助けを『助ける側と助けられる側をちゃんと対等に』するためにはどうしたらいいか、を考えた理念先行型の物語だったんだ、と気づくと、今までこの話に対して抱いていた「なんか不自然な感じ」が一気に解ける感触がありました。

「最も重要なバトルシーンがカジノでのブラックジャック」などの要素に目を奪われがちなのですが「マルドゥック・スクランブル」の本質は「人助け」の意欲作なのだと気づいた瞬間に腑に落ちたといいますか。

ただ、あえて「意欲作」と書いたのは、必ずしもそれが成功しているか?は別だと思うからです。正直なところ、私は前日譚の「マルドゥック・ヴェロシティ」は大好きなのですが「スクランブル」はそれほど高く評価していないからです。

そして、逆に言うと「助ける側と助けられる側」が健全な関係性を保つためには、これだけの設定(助ける側が「ネズミ」!)が必要だったという事を考えると、物語においてすらも「人助け」って難しいのだな、と改めて思い知らされる感がありました。

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