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紀伊半島奥地の秘湯レポ

 2年ほど前からバイクに乗るようになった。お気に入りだったルイガノの自転車を盗まれたのがきっかけだ。バイクと言っても110 ccのスーパーカブ。高速は走れない。だが、この制約が逆に旅に彩りをもたらしてくれる。山間部をゆっくり走る方が性に合う。

 大学院生は気楽だ。休みが欲しければ勝手に休める。特に毎年3月は年度末ということもあって、数日間の休暇が取りやすい。その休暇を使って私は、紀伊半島奥地へ踏み入ることにした。

 愛知県民にとっては、北は下呂温泉、東は浜松、西は京都あたりが定番の旅行先である。紀伊半島なぞというものには、あまり縁がない。しかし地図を見て思ったが、紀伊半島は想像以上に大きい。そして、何があるのかよくわからない。ブラウザにブックマークしてあった2ちゃんねるの秘境スレ曰く、紀伊半島奥地に十津川村という村落があり、そのさらに奥にガチの秘湯があるらしい。そこから少し下れば熊野本宮大社で、日本一大きい鳥居もあるという。けれど、これ以外に何があるのかはよくわからない。ネット上にはあまり具体的な情報がなかった。だからこそ行ってみたくなった。

紀伊半島奥地へ

 3月末は冬と春のギリギリの境目であるが、出発日の朝はしっかり冬の空気だった。無謀にも名古屋から十津川村までの下道250 kmを一日で走ることにしたのだが、案の定、四日市のあたりから身体が震え始めた。いくらカイロを貼って着込んでも無駄だった。寒空の下で60 km/hで強風を浴び続けているのだから、ずっと水風呂に浸かっているような心地である。ガソリンスタンドでの給油よろしく、コンビニに寄ってはポッカレモンを体内に注ぎ込んだが、気休めにしかならない。もう温泉に飛び込むしか方法はなかった。十津川村のさらに奥、そこにある秘湯を目指して丸一日、凍えながら走り続けた。途中で吊り橋があったのでなんとなく寄ってみたが、足元に感じる揺れが吊り橋のそれなのか、自分が生み出した震えなのかもわからなかった。

谷瀬の吊り橋

 午後5時になるころ、なんとか目的地にたどり着いた。村落からさらに10 kmほど山を登り、そこから獣道を徒歩で下って川辺へ降りた先にそれはあった。わけのわからないくらい奥地にある、本物の秘湯。大自然の中にぽっかりと、小学校の25 mプールほどの大きな湯舟があった。もうその頃には体温は恐らく35℃台、ひょっとすると低体温症に片足を突っ込んでおり、湯に浸かること以外に何も考えられなかった。

先客が一人。地元民だろうか。

 無我夢中で服を脱ぎ捨て、飛び入るように入浴した。泉温は44℃くらいだろうか。健康な体温では熱すぎて痛いくらいの温度だが、低体温の体には驚くほど良い湯加減で、何かの薬物でトリップしたような気分だった。このあたりでようやく気付いたが、とにかく硫黄の匂いが強い。そして化粧水のようなぬめりのある泉質である。源泉がそのまま流れ込んでいるのだろう。薬効成分を全身全霊で吸収した気分だ。数時間冷却されて堅い木の板のようになっていた全身の筋肉は完全にほぐれて、こんにゃくになった。

 しばらく浸かってようやく汗が出てきたころ、ふと足許を見ると、ヤゴの死骸だの、蚕のような芋虫だのが沈んでいる。大自然の中の秘湯、という趣を感じた。

 この体験を引き金に、その後も行く先々で温泉を探しては入ってを繰り返す旅となった。バイクに乗って自ら身体を凍えさせ、熱々の温泉でトリップする。見事なまでのマッチポンプである。来年もまたやりたい。


イエローページ vol.29(2022/5/28)にて掲載
2024/7/13 加筆修正