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異世界日本体験記

 美容室の受付で「お会計50ユーロです」という日本語を聞いたとき、この文章を書こうと思い立った。ヨーロッパにぽつりと存在する異世界日本の話をしよう。

 現在、私はドイツ南西部のとある研究所に数ヵ月間滞在している。研究所のある場所というのは往々にして退屈な田舎町だ。よく言えば長閑で、研究に集中しやすい。5分も歩けば深くて黒い森の中である。

 週末はだいたい小旅行をするか、あるいは街に出て適当に時間を過ごしている。日本から持ってきたいくつかの書籍を、カフェでぱらぱらと手繰ったりもしていた。が、ひと月も経たぬうちに、あらかた読み終えてしまった。何か他の本を買うかと考えて、はたと気づいた。ここはドイツ。日本語の書籍など手に入らない。かといって電子書籍は苦手だ。代わりに映画を見るのもいいかもしれないが……いずれにせよ電子デバイスから離れて、机上には紙と珈琲だけ、という環境がやはり落ち着く。

 ふと洋書でも読んでみるかと思い立ち、大型書店まで足を運んでみた。もちろんそこにあるのは、殆どドイツ語の本である。Krimi(推理小説)、Fantasy、Mangaなどと書かれたプレートの下に、所狭しと本が詰まっている(ちなみにMangaはどの書店でも結構たくさんあった)。英語の書籍がないか探したところ、店舗の隅っこに一応発見できた。プレートに書かれた文字は「Books」…なんとも雑な括りである。そこには世界各国のベストセラーが並んでおり、日本人作家の本もあった。

 何冊か手に取って、近くのソファに身を沈めながら読んでみる。しかし、どれも全く読み進められなかった。正確で明瞭な英文でのみ躾けられてきた我々 純日本人にとって、自由な文体で進む詩や小説というものは、学術書や研究論文よりも遥かに難解なのだ。だから例えば、『運動量空間のマッピングによる状態密度特異点に関する研究』よりも『不思議の国のアリス』のほうが圧倒的に難しかったりする。結局、私の問題は、いかにして日本語の書籍を現地で入手するかという一点に収束していった。

 「ドイツ 日本語 書店」と適当にググってみる。すると北西部のデュッセルドルフという街に、高木書店なる店舗があることが分かった。それどころか、このデュッセルドルフには、欧州最大級の日本人街があるようである。チャイナタウン、コリアンタウンは色んな場所で見てきたが、ジャパニーズタウンという言葉はあまり耳慣れない。ともかくそこに行ってみることにした。日本語対応の美容室もあるようなので、ついでに髪も切ってもらおう。外国で散髪して派手に失敗したという体験談は山ほどあるし、同じ轍を踏みたくはない。

いざ、デュッセルドルフへ

 金曜の夕方、研究所のバス停から中央駅へ向かい、特急列車で北上。日本人街はデュッセルドルフ中央駅からほど近い場所にあり、極めて容易に辿り着けた。というのも、道沿いの案内看板に「インマーマン通り/Immermannstraße」と、堂々たる日本語が書いてあったからだ。

見つけて思わず「おぉ」と声が出た

 そして、そのインマーマン通りを歩けば、「クリーニング20%オフ!!」とか「薬局はこちら」とか、生活感のある風景が突如として現れる。高木書店もすぐに見つかった。到着時は金曜の夜だったためか、IZAKAYAと書かれた店の軒先から、陽気な人々が日本語とドイツ語を話しながら歩道に染み出してくる。……ここはどこだ?微妙に世界線の異なるパラレルワールドに迷い込んだ心地がする。

 翌朝、待望の高木書店へ向かう。下町の個人経営の小さな本屋さんといった規模感だが、日本語書籍難民にとっては十二分だ。一時間ほど物色した末に、小説2冊とノンフィクション1冊を買った。いずれも文庫本で、お値段は合計で€48.50。つまり文庫本1冊で2000円超、なかなか痛手である。

 その後、美容院へ。日本人スタイリストの女性に担当してもらった。彼女はオーストラリアのワーホリを経て、様々な土地で美容師をしているらしい。そんなこんなで、冒頭の「お会計50ユーロです」へ繋がるわけだ。全体的に割高だが、なんだか奇妙な経験ができたので謎の満足感がある。

 旅の最後に、近くに惠光えこう寺というお寺があるらしいので立ち寄ってみた。かなり立派な庭園とお堂だった。人はまばらで、心地よい静寂に包まれている。

 賽銭箱にユーロセント硬貨を数枚投げ込み、手を合わせる。とにかく静かな空間だ。数メートル横には先に参拝を終えた東欧系の男女が私のことをとても興味深そうにじっと見つめていた。これが正しい作法なのか、とか考えているのだろうか。

 このあたりで私は、「地に足がつく感覚」を感じていた。無理やり言語化するならば、本来の場所から3 cmくらい浮いていた魂が、ストンと元の座標に戻ってくるような感覚。2019年に国際学会から帰国した際にも、全く同じ感覚を味わったことを思い出した。羽田空港かどこかでラーメンを一口食べた瞬間、この時もやはり魂が正確な場所に戻ってきて収納され、私の身体は正しい重力を取り戻した。

 思うに、人は言葉と文化によって自らを規定し、居場所を確保するのだろう。言葉と文化が違えば、魂は3 cmほど浮揚したまま揺蕩たゆたう。一方、異国の地にあっても、いつもの言葉といつもの文化に接する時、そこに故郷が顕現する。精神的一時帰国である。


イエローページ vol.34(2022/10/26)にて掲載
2024/7/13 加筆修正