人のために2
昨日の続き。「人のため」って何だろう、という話である。
人のために行動しているのを見ると、「いいな」と思う時と「ぞわぞわ」する時がある。その違いは何だろうという話を前回はちょっと書いた。
おそらくはその人の負の部分が発端で「人のため」に動こうとする姿を見ると、何かぞわぞわするのかな、という話だった。
ただこれってとても本人の自覚が難しいもので。「人が喜んでくれることが自分の喜びだ」と言えば「自分のため」とも取れるし、境がわかりにくいよな、と思う。
その辺を自覚しやすくなる、見分ける方法ってあるんだろうか?とも考えてみたものの。良いものは浮かばなかった。
あえて言うなら「助けられる人を自ら探す、相手から言われたわけでもないのに相手のために動くようなら、その傾向にあるだろう」とは思うものの。
この世はマッチングな所があるので、自ら探さずとも勝手にそんな環境になってしまって、意識してそこにフォーカスしないと気付きにくい可能性はあるよなぁと思う。
そもそも「人のため」というものの認識自体、今の世の中とても美化されているところがあるよなぁと感じていて。パッと見「良いもの」だからこそそれを拠り所にする人も多いのだろうと思う。
「人のため」とはつまり「自分ではない他人のため」なのである。
行動の発端が「自分」ではなく「他人」にある。
人はそれぞれ違うのだ。私とあなたは違うし、同じではない。だから「相手のため」に動こうとすれば、多かれ少なかれ、どうしたって「自分を変える必要がある」のである。
ここってすごく大事で、なのに「人のため」という綺麗な言葉に隠されている部分だと思う。
「人のため」が発端である場合。それは、本当ならその時自分がやりたかっただろうことを変えて行動しているハズなのである。
例えば「大音量で音楽を聴きたい!」という自分がいたとして、「でも近所迷惑になるからそこそこの音にしよう」と思ったとする。これだって「人のため」に動いている。本来の自分は「大音量で聴きたい」と思っていたのだから。
「あっちの部屋に行くなら、ついでにこれも取ってきてー」と言われたとする。それだって「本来取るつもりじゃなかったものを取る」という行動を追加するわけだから、小さなことだけど自分を変えている、になると思う。
決して近所迷惑になってでもやりたいことをやれとか、小さなお願い事を聞くなとか、そういう話ではなく。その裏には「自分を変える」という工程があったのだよ、という話。
もちろん一緒にいる人と協力し合うっていいことだと思うし、上に書いたようなことならむしろやってもいいんじゃ?と私も思うけれども。
問題は、「『人のため』を率先してやろうとしている人は常にこの状態である」というところなのかなぁと思う。
他人軸で行動し続けて。本当は自分がやっただろう、やりたかっただろうことを変え続けて。そんな状態では、自分が本来したかったことも、自分というものも、どんどん見えなくなっていってしまうのではなかろうか。
そうしてどんどん自分がぼこぼこ変えられていくのは、何だか悲しいことだと私は思う。
だって「あなた」は「あなた」として生まれてきたのだ。「誰かのため」じゃなく「あなたとして」生きていろんな経験をしたくて生まれてきたはずなのだ。
その人本来のやりたいことを見えにくくする作用が「人のため」にはあるんじゃないかなと思う。
というところで長くなったし時間なのでこの辺で!
書きたかったり考えたりしたことは大体書いた気もするけれど、明日もちょこっと続くかなぁと思う。
ではまた明日。